対立意見にすぐ同意するのはむしろ失礼

 世の中には対立上等の議論好きと和を重視する争い回避派がいて、両者はなかなかわかり合えないなと思うシーンも多い。
 わたしはどちらかというと前者に与するが、後者との間でわかり合うのが難しいと思うことのひとつに、対立意見への態度がある。

 争い回避派は、争いを避けるのが優先されるため、対立意見をもつ相手を説き伏せるよりは自分が譲って場を収めようとする傾向にある。
 他方、議論好きは当然ながら嬉々として議論を始める。

 わたしは喜んで議論を吹っかけて回るほど好戦的ではないが、対立意見に対して簡単に自論を譲ることもない。それはむしろ失礼だと思うからだ。このへんの感覚は、議論を避けたいタイプの人にはピンと来にくいかも知れない。


 そもそも、ある意見を自論として出したなら、自分なりの根拠や理由があるはずだ――と議論好きは考える(実際にはそうでないことも多いが)。
 その根拠や理由を互いにぶつけ合ってアウフヘーベンしていくのが重要であるのに、相手が簡単に意見を引っ込めてしまったら肩透かしである。意見に対して自分なりの理屈を述べられないなら、最初から何も言わないほうがいいではないか、というわけだ。

 一応、議論を避けたい立場の感覚もわからないではない。そちらにも複数のスタンスがあり、たとえば口下手なので言い合いをしたくない、そこまで自論にこだわりがない、議論すること自体がダルい、攻撃的なのがイヤだ、といった考え方がある。

 これは容易にわかり合えるものではないな、と思う。議論好きは、議論すること自体を攻撃的だとは感じていないのだ(なかには攻撃的な議論好きもいるが)。


 議論好きと討論好きは異なる。後者は相手を論破する結果が気持ち良いのであり、前者は主張を戦わせるプロセスを好む。
 したがって、討論好きが相手ならばさっさと折れて争いを避けるのも有効だが、議論好きにそれをやると面倒なことになりかねない。

 争いを回避したい側としては、こちらが譲ったのにどうして噛みついてくるのか、くらいに思うかも知れないが、そこは議論好きと討論好きの違いというわけだ。


 議論は異なる意見の持ち主同士が合意に至るための手段として有効だが、決して万能ではない。たとえば政治の話題が敬遠されがちなのは、議論を主な手法に据えているから、という理由もあるのではないか。

 人それぞれで意見や立場が異なることを前提として、それらを和合させるための手段には、議論以外のものも用意すべきなのかも知れない。
 感覚の違いも相まって、難しい話だと思う。



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