言葉は刃物→言葉あそび=刃物あそび

 言葉はしばしば鋭い刃物に喩えられる。人を切り付けたり傷付けたりできてしまうからだ。言葉が刃物だとすれば、言葉あそびとは刃物あそびなのである。ふと、ナイフをペロぉ……と舐める殺人鬼のイメージが浮かぶ。あれはどうして舐めているんだろうか。

 以前、送料無料という言葉について取り上げたnoteでも触れたが、「言葉あそびだから無意味だ」といった見解には疑いを差し挟む余地がある。
 確かに、イジメという言葉を「暴行」「傷害」「強制性交」「窃盗の間接正犯」みたいに言い換えたとしても、それだけでイジメの事実が何か現実改変されるわけではない。

 だが、悪口や陰口を言われまくったら通常の人間は精神的に堪えるのだから、言葉に一切の効果がないとはいえないだろう。子供が刃物で遊んでいたら、多くの保護者はすっ飛んでいって刃物を取り上げるはずだ。刃物のような言葉もまた、同程度には危険視されて然るべきである。


 言葉が時に危ういものだとすると、言葉あそびも危険性をはらむものだといえる。単なるダジャレや掛詞の類は平和に楽しめるかも知れないが、たとえば差別や弾圧は、「差別/弾圧ではない」という建付けのもとに正当化されることが珍しくない。言葉あそびのようなすり替えによって、重大なものを大したものではないように見せかけることは十分に可能だ。

 何かを言葉でどう呼ぼうが、しょせんは言葉なのだから、さほどの影響力などない、と考える人々は、ちょっとそこらへんを軽視しているのではないかと思ってしまう。


 口から出る言葉は単なる空気の振動だし、文字として書かれた言葉は単なる点や線の組み合わせだ。そこには人を脅かすような種も仕掛けも存在しない。だが、それでも人は言葉によって嬉しくもなれば、死にたくもなる。それだけの影響力を有しているのだ。

 言葉は遊びの道具にできる、いわば遊具としての性質をもつ。そして、遊具による事故で命を落とした人間もそれなりに存在する。遊べる道具だからといって、危険ではないということにはならない。楽しげな雰囲気のみに着目していては、そうではない部分が目に映らないのだろう。

 言葉のもつ効果や役割、影響力を踏まえた上で言葉あそびというものを考え直してみれば、くだらないものと一蹴することはできないのではないか。
 もしかすると本当の言葉あそびとは、思われている以上に荒々しく、危険性の高いものであるのかも知れない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?