大切なものをコロコロ変えよう

 世の中「変わらないもの」の大切さを説く人は多いし、とりわけ「大切なもの」はあまり変えないほうがよいと思われがちだ。
 ある種の一途さが求められるというか、重要度が頻繁に変わるようなものはそもそも大切ではなかったのだ、と見なされてしまうようである。

 ただ、個人的には大切なものをコロコロ変えてもいいんじゃないかと思っている。いや、むしろ場合によっては大切なものがしょっちゅう変わるくらいのほうがよいとすら思う。
 なぜなら、大切なものが変わるというのは、活動と成長の証ともいえるからだ。

 これを説明するために「大切なものが変わらない」という状況がいかなるものかを考えてみよう。
 仮に、人生でずっとひとつの部屋に籠もりっきりで何もしてこなかった人がいるとすると、その人には大切なものはないと想像できる。何かを大切に思うきっかけが存在しないからだ。

 逆にいえば、大切なものがある人は、何かしらの活動によってその大切なものを得ている可能性が高い。
 たとえばスポーツ大会の優勝トロフィーなら、その競技に時間や労力を費やす必要があっただろうし、カードや古銭といったコレクションなら、それらを蒐集するという行為が不可欠だ。

 これらに対して、他人からのプレゼントが大切だというケースでは、本人の活動は要しないようにも思える。
 しかし、その相手とプレゼントを贈られるような関係性を築くという行動が贈り物という形で結実しているのだから、やはり何も活動しないで大切なものを得ているとはいい難い。

 このように、大切なものは多くの場合、活動によって得られる。そして、新たな活動をするたびに別の大切なものが手に入り、それらの優先順位も入れ替わることだろう。

 買ってもらったオモチャを大切に思っていた子供は、やがて部活で金賞をとった賞状が大切になり、大学の合格証書や企業の内定通知、昇進の辞令が大切になるかも知れない。
 両親が一番大切だった子供が交際相手、そして生涯の伴侶に想いを向け、やがてはそこに産まれた子供に愛情を注ぐようになるかも知れない。

 物も思い出も人間も、大切なものはこうして移り変わるのが自然なのだ。何もしてこなかったがゆえに幼い頃から大切なものが一切変わらず老いてゆくのは、ある意味グロテスクなことではないか。


 そんなわけで、大切なものはわりとカジュアルに変えてしまっていいと思うし、その変化は自分が活動を積み重ねてきたからだと考えればいい。
 これは過度の執着を防ぐ上でも役立つ捉え方だと思う。



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