争いの解決に話し合いはどこまで有効か

 人が集団で生活していたら対立や衝突は付き物なので、その解決手段を用意しておかねばならない。それは暴力かも知れないし、圧力かも知れない。何らかのルールを整備し、強制通用力をもたせることかも知れない。

 そうした中のひとつに、話し合い(対話)が挙げられることがある。
 学校などでも「話し合いは大事だ」と教わってきた人は多いのではないだろうか。

 わたし自身、ハーバーマスの提唱するような対話的理性を重要なものと捉えているし、好きな考え方でもある。

 ただ、ある思想やスタンスが個人的に好きであることと、それが問題解決手段として有効かどうかは別の話だ。話し合いは、争いを解決しようとする場合にどこまで有効なのだろうか。


 そもそも争いとは、単に人々の思想が異なるだけでは生じないものだ。

思想A:自分はリンゴを必ず食べる。
思想B:自分はリンゴを絶対に食べない。

 Aだけが存在する社会にも、Bだけが存在する社会にも、AとBが存在する社会にも、争いは生じない。
 争いが生まれるのは以下の思想が存在する場合だ。

思想C:全ての人間がリンゴを必ず食べるべきである。
思想D:誰一人としてリンゴを絶対に食べてはならない。

 自分がどうこうではなく、他人も「かくあるべし」と言い出した途端に、それが争いとして成立してしまうわけである。

 さて、ある種の相対主義、すなわち「みんな違うが、別に違っていても構わない」という思想は、AやBについては妥当する。ところが、CやDには当てはまらない。

 余談だが、日本人のよく言う「多神教」としての寛容さは、主にAやBについて想定するもので、CやDの思想には対応していない。
 そして、思想であるという点では変わらないにもかかわらず、そうした人々はAやB、ないしは相対主義をCやDよりも先進的な優れたものだと認識する傾向にあるようだ。
 おそらくは無意識的なそうした発想自体が、実のところ視野狭窄に陥ったものでないかどうかは、一度省みてもよい気がする。

 問題は、CやDを前にして話し合いが成り立つのか――というか、何か話し合うことに意味があるのか、である。

 何らかの理由があってCやDの立場を支持しており、かつその理由は変更の余地があるというなら、話し合いによって妥協や融和の道も探れるだろう。
 しかし、理屈ではないところでそうした立場を採っているなら、話し合いで思想や主張が変わることはないはずだ。

 このとき、少なくとも思想自体の適否や考えを変える可能性について話し合うことは無意味だと思うが、それでも話し合いが重要だという立場を採る人がいる場合、その人は何をどのように話し合うことを考えているのだろうか(なお、ここでは『話し合いと言いつつ自論を押し付けたいだけ』といった類の人間は考慮しないものとする)。

 話し合いとはあくまでも外枠に過ぎず、何を話し合うかによって変わるものだ。「話し合い」という手段を精緻化するためにも、妥協の余地のない思想同士が対立する場合に何を話し合うのか、という点は、突き詰めて考えておきたい。



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