大勢の人が関わっているからこそ問題が見逃されることもある

 とあるバンドのミュージックビデオの内容が、歴史や文化に照らして差別的なものではないかと問題視され、”炎上”状態となった。当該MVは非公開となり、楽曲を起用した広告についても展開が中止されたという。

 その具体的な内容や、非難されることの是非に触れるつもりはない。
 ただ、ひとつ気になったのが「MVの作成やタイアップの話が進むなかで大勢の人間が関わったはずなのに、どうして公開にまで至ったのか」といった疑問が提示されていたことだ。
 要は、関係者が多かったなら誰かが「これは問題だ」と考えて作成途中でストップをかけられたのでは、という疑問だろう。

 この考えは一見正しそうだが、案外そうでもない。そしてそこにこそ集団で何かを進めることの問題点が潜んでいるのだと思う。


 これもまたネット上に投稿されていた問いかけとして、以下のようなものが見られた。

「仮に、大勢の人員が関わったプロジェクトで一介の平社員が『問題点』に気づいたとして、彼ないし彼女はそれを上司などに言えただろうか。
 またもし言えたとしても、それによってプロジェクトが中止され、その平社員は『問題』の発生を食い止めた功労者として評価を得られるか」

 実際、これがかなり困難であろうことは、序列ある集団で何かを進めたことのある人間ならわかるはずだ。

 上の地位の人間に対し、勢いのついたプロジェクトへの異議を唱えることは難しく、大抵は中止どころか、ブレーキをかける効果も生じない。
 まだ生じていない問題への懸念を申し立てたところで、心配性だと笑い飛ばされるか、無粋な人間扱いされかねない。それどころか、ただプロジェクトから外されて、『協調性のない人間』として評価も下がるだけ――というおそれすらある。

 つまり、よほど地位のある人間か、そうした人間への根回しやアプローチの上手な人間でない限り、大勢の人間の関わるプロジェクトを内部から差し止めるのは不可能に近いのだ。
 なぜなら、多くの人間が関わっているということは、それだけプロジェクトの成功によって生じる利益と影響も大きく、容易にはストップできないからである。


 MVの件が実際にどうであったのかとは別に、問題があるとして炎上してしまい、「どうしてこれが通ってしまったのか」と言われるような大型案件では、わりとこうしたケースもあったのではないかと思う。たとえ下っ端が問題の存在に気づいていたとしても、出てしまったGOサインは止められないのだ。

 一人ひとりは優秀でも、集団になるととてつもなく愚かな決定がなされてしまうこともあるが、これもまた責任が分散されて、地位が下の者は上の者に逆らえない、といった理由によるのだろう。


 基本、多くの人間が協力してひとつのことを成し遂げるのは素晴らしい。やはり個人でできることよりも大規模な形で進められる。
 ただ、大勢の人間が関わっているがゆえに生じ、見過ごされる問題もあるため、注意しなければならないと思う。



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