できない人は「理由」を蔑ろにすることが多い

 世の中は「できる人」と「できない人」に大別されて、残念ながら自分は後者寄りである、という人も多いだろう。
 この両者はいったい何が違うのかと考えていて、ふと思ったのが行為に対する理由付けの有無だ。

 できない人は、自分が行ったことや選択したことについて明確な理由をもたないか、もっていたとしてもそれを説明できない傾向が見られるのではないか。つまり、「理由」を蔑ろにしているのである。


 できる・できないというのは、スキルや成果の問題である以上に、評価の問題だと思っている。ある人間を別の人間(自分自身の場合もある)が、できる人かできない人かと評価するのだ。
 その評価にあたって重要なのが、行為や選択に対する理由の有無である。

 たとえば、誰かが明らかに失敗に見えるようなことを仕出かしたとする。成果だけが評価の基準ならば、普通に「できない人」という烙印を押されておしまいだ。

 ところが、その失敗に見えるようなことが、将来の成功に向けた布石だとしたらどうだろう。そうである理由を根拠とともにきちんと説明できたのであれば、直ちに「できない人」扱いされることはない。
 少なくとも、「なんとなくやって……失敗してしまいました」としか言えない者よりは、信頼の置ける人間だと見なされるはずだ(もちろん、理由を説明できたとしても、それを何度も繰り返すと信頼は失われるが)。

 つまり、時には成果そのもの以上に、それをした理由のほうが重要視されるのである。


 理由が大事なのは、なにも他人を説得するために限られない。何かを行ったことについて、その理由を自分なりに明確化できていれば、失敗するか成功するかを問わず、今後につなげていける。
 成功したなら繰り返してもいいし、失敗したならやり方を変えてみる。その際に、理由が指針となるわけだ。

 なぜそれをしたのかが曖昧だと、改善のしようがない。失敗は成功の母であるといわれるが、理由なき失敗は何度繰り返そうとも母にはなれないのである。

 学生であろうと、会社の新人であろうと、何かをさせてみて理由を問うたときに、きちんとその人なりの答えが返ってくるかどうかは、有能さを測るバロメータにもなると思う。

 多くの人は、この理由付けという取り組みを、就活の面接対策などで経験しているだろう。それでも新人になったときに打てば響く者とそうでない者とに分かれてしまうのは、おそらく、対策を付け焼き刃でやったか、今後も重要なスキルだと承知して実践していたかの違いだ。


 「できない人」扱いから脱却するための第1ステップとしては、自分の行為や選択に、自分なりの理由を付与する訓練を積むことではないかと思う。



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