微笑ましさの笑いと嘲笑とは区別が必要

 笑わせるのは好きでも笑われるのは嫌い、という人は多いと思う。後者の笑いは「嘲笑」に分類される。侮りや嘲りを含む笑いだ。
 これに対し、意図して生み出される前者の笑いは、面白さや親しみ、驚きなどを含むもので、お笑い芸人や落語家などによる笑いはこちらだろう。

 一般に、笑いは好ましいものだと思われがちだが、実際には必ずしもそうではない。意図しない笑い、理由のわからない笑いは人を不快にさせることが多いからだ。

 理由なく周りから指さされてクスクス笑われてまったく気分を害さない大人は少ないだろうが、それは幼児ですら同じだ。自分の振る舞いに対して周囲の大人が笑っていると、はっきり怒りや不快感を示す子供も少なくないという。
 一例として、ラジオ番組の「かわいらしさを笑うと怒る子どもについて」という投書の内容が参考になる。

 つまり、大人になって恥を知ったからというのではなく、幼い頃より、笑われて不快になる心理的反応は人間に備わっていると考えられるのだ。


 また、少し前には英語の時間にネイティブの発音で話したら笑われた、という内容の投稿が話題になっていた。これはその投稿者の環境が特殊だったわけではなく、昔から似たような話は聞くところである。

 これも、おそらくは発音がきれいな人を馬鹿にしての笑いではないと思われる(ギャップや、意表を突かれたこと、意外性、感心などが笑いとして表れるケースであろう)が、それでも笑われた側は気恥ずかしくなってしまうものだ。


 特に幼少期の教育では、こうした「微笑ましさ」や「意外性」に基づく悪意のない笑いと、悪意や見下しを含んだ嗤いとをしっかり区別する必要があると考えている。そうでなければ、学びや挑戦への萎縮を招くからだ。

 理由がわからずに笑われたときに、人間がそれを好意や親しみに基づくものだとデフォルトで解釈するのであればよいが、興味深いことにそうはなっていない。
 いきなり笑われたら、大抵の人はそこに何かしらの悪意を見出すのではないか。この素朴な捉え方が、人間にとって「笑い=常に好ましいもの」ではないことの証左であろう。

 したがって、可愛いから笑ったとか、微笑ましいから笑ったとか、そのような好意的な理由による笑いだからといって、相手の怒りや不快感を真面目に受け止めなくてもよい、とはいえない。
 特に相手が幼い子供なら、怒っている姿も可愛い、などと思ってしまいがちだが、大人が真面目に取り合ってくれないことへの怒りや不信は存外記憶に残るものだ。
 決してあなたを馬鹿にして笑ったわけではないのだ、と説明する責任が、笑った側にはあると思う。英語などの授業であれば、そこのあたりの心理は教師がきちんと整理して伝えなければならない。


 笑いは必ずしも好意だけを含むものではなく、だからこそ笑いを介するコミュニケーションには注意を要する。
 こうした笑いの多面性を意識することで、より丁寧な関係性を築けるのではないかと思う。



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