自分の心を守るための意識の持ち方

 自分の心を守るとは、もう少し具体的に言うと次の2つだ。

「自分の心が傷つかないように守る」
「自分の心を傷つけようとしてくる攻撃から守る」

 では、心が傷つくのはどういうときだろうか。
 シンプルに言うと「大切に思っているものが蔑ろにされたとき」である。

 自分自身を大切に思っている人は自分を馬鹿にされたら傷つくし、家族を大切に思っている人は家族を侮辱されたら傷つく。趣味を大切にしている人は趣味を、ペットを大切にしている人はペットを、信念を大切にしている人は信念をくだらないものとして切り捨てられたら傷つく。

 傷ついた結果として悲しむこともあれば怒ることもあるだろうが、反応が違えども傷ついていること自体に変わりはない。

 これを前提に、自分の心を守るための意識の持ち方を考えてみよう。


 まず、大切に思うものを蔑ろにされて傷つくのだから、そもそも何も大切に思わなければ傷つかない、という防衛方法があり得る。
 たとえば、自分をバカにされ続けた人が自虐に走るような行いだ。わざと率先して自分をバカにしてみせることで、他人からバカにされることなど大したことではない、と言い聞かせるようなやり口である。

 これは2つの意味から推奨できない。
 ひとつは、何も大切に思わない人生は、おそらくあまり楽しくないからである。思い入れや執着、プライドは時に邪魔になるし、自分を惑わせることもあるが、「それだけ大切に思うものがある」という事実が支えになることもまた大いにある。自分の命も含めて何も大切に思わないのであれば、そもそも生きる意味や意義も希薄になってしまうだろう。

 もうひとつは、心底から「何も大切に思わない」のは事実上困難だからである。他者から傷つけられた人が自傷行為に走ったところで、自分が大切であるとの思いから完全に解放されるわけではない。無理はストレスにつながり、いずれ不調を招く。「大切に思わないフリ」には限度があるのだ。


 そこで、もう少し実践的な防衛方法として、自分にとって大切なものが他人にとっても大切なわけではないことを認識する、という方法がある。もっと言えば、自分にとって命よりも大切なものが、他人にとってはゴミ未満であることすら決して珍しくはないのだ。

 たとえば、ある競技に打ち込んできたプロからすれば、その競技は誇りであり、収入を得る手段であり、人とのつながりであり、思い出であり、人生の軌跡かも知れない。だが、その競技に興味のない他人から見ると、なくなろうがどうでもいいのである。
 そういったことは枚挙にいとまがない。

 自分にとっての思い入れと他人にとってのそれに温度差があることを認識していたとしても、大切なものを無碍に扱われて傷つくことには変わりないだろう。
 ただ、ダメージは軽減できる。

 一番ダメージが大きくなるのは、自分にとって大切なものが他人にとっても同様に大切だろうと無邪気に信じている状態で、ゴミ同然に扱われることである。自身の認識とのギャップが大きいため、衝撃も大きくなるわけだ。

 その結果、取り乱したとしても、他人が「自分にとっての大切さ」を完全に共有してくれることは少ないので、取り乱すほうが無様に見られたり、反感を買って敵意を持たれたりすることがある。被害者に追い打ちをかけるような態度は良くないと思うが、事実としてそういう反応があるため自衛は必須だろう。

 また、自分の大切なものが他人にはどう思われているか、を冷静に認識することには、知らず知らずのうちに傲慢になることも避けやすくなるという効果も期待できる。
 たとえば、「大切なものを保護しているのだから、他人が譲ってくれて当然だ」といった態度は嫌われやすいが、そうした振る舞いをしないで済む。


 何かを大切に思う気持ちは大事であり、捨てなくてもいい。
 ただ、その「何か」が他人からはそこまで大切にされなくても仕方がないと思っておけば、ショックは少なく抑えられ、冷静に対処できるはずだ。

 これを広く言い換えれば、「自分と他人は違う」、そういうことなのだろうと思う。



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