ネット上で輝く才能には積み重ねた時間が見えない

 インターネットが発達し、SNSなどでのつながりが一般的になって以降の世代の人たちについて、ちょっと気の毒だなと思うことがある。

 それは、ネットを通じて全国、ないし全世界の輝かしい才能が可視化されてしまっている点だ。
 自分がこれから何かを積み重ねようと思っても、すでに到底及ばないように見える業績がいくらでも目に入ると、挑戦しようという意欲が削がれてしまう――そんな人は少なくないだろう。

 もちろん、そういうことはネットが発達する以前からいくらでも起きていたのだろうし、また優れた業績を目の当たりにすることで逆に発奮する者もいるのだから、本人の考え方次第だと言えなくもない。

 ただ、ネット上で目立つ才能や成果物には、ひとつの特徴がある。それは積み重ねた時間が見えにくいことだ。

 たとえば、組み立てなどの作業でも、イラストなどの創作物でも、何かの受賞歴でもいいが、そこへ至るまでに当人は相応の努力なり労力なりをコストとして費やしてきたはずだ。何も下地がなく、人生で初めてそれを行ってみて華々しい成果に結び付いた、という人は皆無ではないにせよ稀である。

 現実だと、年齢や経歴がセットで示されることが多いため、その人物がどのくらいの時間を研鑽に費やしてきたかが可視化されやすい。
 これに対してネット上だと、才能や成果物を示している人の背景が見えないことも多く、外貌も年齢も性別も国籍も不明というケースも珍しくないのだ。
 結果として、いきなり優れた成果だけが目の前にポンと提示されることになる。

 ある程度の時間を生きてきた人だと、それなりに労力を費やし、試行錯誤を積み重ねて今の実力を身に着けたのだろう、などと思いを巡らせることができるが、年若く経験が浅いと、なかなかそのように腹落ちするのは難しいはずだ。ただ自分と比べて、無力感に蝕まれてしまう。

 たとえば10年間をそのジャンルに打ち込んだ人と、今日そのジャンルに手を付けた人とでは実力に差があって当然だが、そうしたキャリアの違いがネット上では見えにくいのだ。


 固有時間の進み具合は人それぞれであり、本来は無理に比べてどうこう憂うようなものでもない。お隣の生後10ヵ月の赤子が二本足でつかまり立ちをしたからといって、自分の生後11ヵ月の赤子がまだ立たないことに焦る必要はないのと同じだ。

 子供の発育なら当たり前とされることが、成長していくにつれてそうではなくなってしまう。この年齢なら誰もがこれをできて当然、みたいに比較されるのだ。

 しかし、むやみに焦ることはない。自分は自分なりに積み重ねていくことで、そのうちできるようになっている。



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