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分かってほしいという願いを人は叶えられない。けど、分かってくれる人が一人いてくれればそれだけでもう充分。【2020年に向けて2020字で書いてみた】

女は「分かってほしい」、男は「褒めてほしい」。

なんていうのが書かれた画像が、前にどこかのSNS上で出回っていた。今でも、pintarestとかで見かけたりする。

わたしは女だからなのか、「分かってほしい」気持ちが学生の頃から強くあった。

それは、認められないことの裏返しで強くでていたからなのか、思春期特有のそれだったからなのか…。理由はもう、よく分からない。

でも「分かってほしい」と思う機会は、誰にでも均等に訪れる。

人は人を100%理解することはできないし、100%信じることも、愛することもできやしない。だからそこには少なからず距離があって、境界線のような溝がある。

数センチか数ミリか数メートルか、そういう人と人の間には埋められない溝のようなものが必ずあって、その溝から「分かってほしい」が生み出される。

のだと、わたしは常々思っている。

誰かのことは、好きなときもあれば嫌いなときもあって、好きなときが多ければ多いほど自分にとって好きな人になる。

これがスタンダードだけど、時に例外もある。

たとえばDVに遭っているような女性は、暴力的な旦那の一時的な気休めの優しさに惑わされてしまって、DVから逃れられない状態に陥ってしまうばあい場合もあるそうだ。

嫌いで苦しいときが多いはずなのに、瞬間の優しさに依存してしまうのである。

これは、距離が近すぎるからこそ起きてしまうこと、だと思う。

近ければ近いほど、その境界線に近づけば近づくほど、好きなところも嫌いなところも見なくていいところまで見えてしまう。

ゆえに、諍いも絶えなくなる。



やっぱり、人間同士で面倒を見合うのは限界がある。

苦労を要することが前提としてあり、同時に、詰めすぎない距離感を保つことが「平和」でいられることの前提条件だ。

しかしそれで、心が満たされるかといえば決してそんなこともなく。

むしろその距離感がときに、虚無感を生むことすらある。

「分かってほしい」のに「分かってもらえない」ことが積み重なっていくときもある。

だからといって距離が近すぎる共依存的な人間関係は、はじめはよくてもいずれは毒となる。

人は愛を求めるけれど、人間同士の愛には初めから「限界点」が見えているように思う。

人は人を、100%は分かってやれないし、100%は愛せないし、100%は信じることができない。これはもう自然の摂理としか言いようがない。

アニメはそれが実現できているけど、現実はそうじゃない。いくら憧れても、それが不可能であることは最初から明らかだ。




じゃあわたしたちは諦めるべきなのだろうか。

完璧な愛を求めるのをやめるべきなのだろうか。こころゆくまで愛されたいと願う気持ちを押し殺さなければいけないのだろうか。

それは違う。

なぜなら、愛してくれる神様がいてくれるからだ。

これは信仰日記だから神様が登場しないときはない。

神様が心が満ち足りるほど愛してくださるということは、実際にそうだったから言えることだ。

わたしはときに、自分のやましい罪悪感に押しつぶされてしまう。そうして祈れなくなるときもある。でもそれでもまた祈るようになれるのは、神様の愛がわかるからだ。

どう分かるか、それはrapt blog(https://rapt-neo.com/?page_id=1815)を通じて神様の考えや心情を知ることができるからこそ、分かるようになる。

神様は嫌な顔ひとつせず、わたしたち人間を導く。

こんな面倒なことはないはずだけれど、今現在を、そしてその人間が死ぬまでのあいだずっと、大事に育てようとしてくれる。

生きている間だけでなく、死んでからも面倒をみようと言う。

人間が人間を面倒みるのとは訳がちがう。

人間が人間を面倒みると、どちらかは必ず地獄をみる。といっても過言ではない。

しかし、神様との関係においてはそれはない。辛いことや苦しいこと、この世の地獄は垣間みたとしても、神様の愛に地獄をみることは決してない。それはただ、神様が完璧な存在であるがゆえ。




映画のように、あらゆる嫌なことや喜びを一本にまとめて、最後にハッピーエンドとして処理することは、現実ではとても難しい。

報われない思いだとか、認められないことへの複雑な感情だとかが入り乱れてしまって、大体まるごと「嫌な記憶」として処理されてしまうことが大半だ。

でも、本物だと確信する神様の存在と出会えてからは、その思い出が映画のように美しくハッピーエンドとして映し出される。

美化でもなんでもない。いまがハッピーなら、その思い出はすべてハッピーエンドなのである。

分かってくれる人、それは一人いれば充分だ。

人生を共にしてくれる人も、永遠を共にしてくれる人も、たった一人いればいい。

そういえるのは、わたしがもう誰にも「分かってほしい」とは思わなくなったからだ。

神様と出会えてからの人生は、必ずハッピーエンドになると確信できる。わたしたちが神様を100%信じ、愛する心を失わない限り。



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