神さまのいる人生と、そうでない人生。

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神の御心の道を進むというのは簡単なことではなかった。来年の4月になれば3年目を迎えるけれど、根深い悪癖を断ち切るのは難しい。

悪癖ばかりじゃない。わたしという人間が、社会のなかに、家族という人間関係のなかにいる以上、周囲からは良いのも悪いのも両方の影響を受ける。そうするうちに、神様を信じ続けるという意思を貫けず、揺らいでしまうこともあった。

わたしはとくに、母親との関係を見直して、正す必要があった。昔から、母の影響を強く受けながら育った。母と娘にはありがちかもしれないとは思うけど、互いに心理的な距離が近すぎたのだと思う。俗に言う、共依存関係になっていた。母からの愛憎の幅が大きかった。だからわたしは、知らず知らずのうちにコントロールでもないけれど、顔色を伺うようになり、心も開けっぴろげにすることはなかった。

信仰をもってから数ヶ月して、この関係を見直すきっかけがあった。わたしはまだ母親とのしがらみを解消できていなかった。どうすればいいのか全然わからなかった。精神的にはまだ服従状態にあった。

そのきっかけとは、わたしが「大学をやめる」と言い出したことだった。そう言いだすわたしは、どうみたって親不孝者だった。それは、これまで育ててくれた恩も、大学に通うお金も、すべて仇で返すかのような一言だった。それでも、わたしがそう決意したのは、わたしが進みたい道とは逆方向にあったからだった。

わたしは看護師の適正がないことは、割と最初に分かっていた。両親はわたしがraptブログを読んでいて、信者であることを知っていた。分かりきったことではあったけど、母親はとくに迫害してきた。正直にいうと、あまり思い出したくないし、話したくはないけれど、ここから3ヶ月くらいは1番つらかった。けれど、1番祈り求めたときでもあった。

結論から言うと、大学をやめることは無かった。けれど、看護師になることはなかった。その決断もまた大きなもので、周囲に波紋が及んだ。また、このほかに出来事もたくさんあったけれど、とりあえずは省略する。

だが、これがきっかけで、ある人からの助言なども受け、わたしも母親も、関係を見直すことができたのだった。すぐには直らなかった。だけれど、何ヶ月も時間をかけて、試行錯誤して、互いに修正していく姿勢が整っていった。母親のことで祈ることも多かった。憎い時もあった。けれど、神さまの愛があったから、激しく憎むことがなかった。信仰を持つ前は、はげしく怒りを抱えることが多かった。何か言われて言い返したら、10倍返しに合うのでいつも抱えるだけだった。これは母親に限ったはなしではない。だから、この理不尽さに行き場のない怒りを抱えていた。この世には、ストレスを発散する人と、溜め込む人の2種類に分かれるんじゃないかと考えるくらいだった。

しかし、信仰をもってから、怒りを感じたとしても、祈るとなくなった。神の愛はそんなちっぽけな怒りなんかはすぐ何処かへやってしまうほど、大きいものだった。だから根に持ち続けることがなくて、わたしは本当に楽になれた。

また、わたしには、親しくなると距離が近くなり過ぎてしまうところがあった。それはわたしが、繊細すぎたり、他人の言うことを間に受け過ぎたり、という面とも関係していると思う。「精神を強くすること」、言うのは簡単だけど、実際に強くするにはどうすればいいのか分からなかった。このことについても祈ることが多かった。

わたしは常に自分を客観視して、分析して、考えた。そういう試行錯誤を繰り返した。人間観察が好きでよく他人も自分も分析して出来ていたつもりだったけど、いかにそれが“つもり”だったのか、分かるようになった。そして、いかに自分が自分の思いや感情にとらわれ過ぎていたか、理解した。それから解放されるようになると、状況や他人のことに集中できるようになった。だから、その場でいろいろ思考を巡らせて考えられるようになった。いざ何か起こっても冷静になれた。冷静になって分析して、適切な対応ができるようになったのだった。

この内面的な変化は、目に見えないけれど、自分にとって大きな変化だった。繊細であることが、わたしの学生の頃からの大きな悩みのひとつだった。それが解消されたことは、驚きだった。時間はもちろんかかった。けれど、確実に正しい方向に変われた。繊細な心を失うことなく、良い方向に変われたと感じている。わたし1人では絶対に無理だった。人の手を借りたとしても無理だった。これは良い変化のひとつにすぎない。

わたしがどうして変われたのか。それは頭のなかに真理があって、心に神さまの愛があったからだと胸を張っていえる。神さまからの声を直接、聞くことはできない。だけど、神様からの声を啓示にして真理と愛を言葉で伝えてくださっている方がいる。それがraptさんだった。分からなくて、どうしても分からなくて苦しんでいても、その答えが次の日のraptさんの御言葉に偶然あったりする。それが何回もあって驚いたからこそ、いかに本物であるかが理解できたのだった。

なぜ神様を信じられたのか。それはいつも、神様が愛をくださったからだった。どんなに失敗したとしても、落ち込んで座り込んだとしても、いつも立ち上がらせてくれた。わたしを励ましてくれるのを、目には見えないけれど、それがとても伝わってきた。

わたしの人生は大きく変わった。なにが変わったかといえば、孤独ではなくなった。これからは、なにをどう選択して生きればよいのか、それらをひとつひとつ、神さまと共に選択していくことができる。もう孤独じゃない。それは思い込みじゃなく、ほんとうに心でわかる深い愛だから。あれほど恐れていた永遠も、もう怖くない。

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拙い文章ながら、最後まで読んで頂きありがとうございました。
神さまのいる人生がどんなに心強いのか、従うほどにどれほど良く変われるのか、日々それを実感します。
興味のある方はぜひこちらのブログを読んでみてくださいね。
https://rapt-neo.com/?page_id=30947

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