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噓すぎる話をしてもいいし、幻想でもいい。本当のことしか話しちゃいけないなんて理はない。人は変わるものです。家で頑張るって何ですか?あなたが努力せずにできることだけすればよいのです。

「ない話」をしてもいい。ない話でハチャメチャ盛り上がるのも面白い。それは無駄な時間にはならない。

母は50代で私がまだ大学生のころに若年性アルツハイマー型認知症と診断されました。

症状が出始めたのはもっと前で母は40代、私は中学生でした。
そのため最初は母が変わってしまったショックが大きく、夜、布団で横になって目をつぶると「これから母はどうなるんだろう」とか、「前はあんなに頭が良かったのに…」(母はもともととても頭が良い人で勉強熱心でした)とか思っていました。

診断された当初も、私は診断の5、6年前から兆候に気づいていたので「私がもっと説得して病院を回ればよかったのかな」と思ったりしてしてかなり泣いてました。

ちなみに、認知症は早期発見!早期治療!と言われますが、認知症の症状が出ている人を説得し病院に連れていくのは、しんどいですよ。骨が折れるというか心が折れる…車がなければ余計に。私は一回連れて行っただけで疲れ果てました。
しかも、そこでは診断が下りず「疲れが出ているのでしょう」と言われただけだったので、「疲れてこんな風になるわけないだろ!」と本当に頭にきました。私もストレスでおかしくなりそうで、発疹が全身に出て包帯ぐるぐる巻きになっていました。
そんなこんなで、一回目の受診で心が折れちゃって、それ以降1年以上受診しなかったので診断が下りるのが遅れました。

あの頃は辛かったですね。
あの時の自分、ほんとによく頑張ったなと思います。セルフハグ。ぎゅー。

泣きたいときは泣くことも大切です。

私は侘び寂びやな~、生と死のサイクルだな~と思うと悲しい気持ちが和らぐことに気がつきました。

ちな、おばあちゃんも認知症なwww

祖母は車を処分しており乗れないのに、グループホームに面会に行くと「今も車は運転するよ」と言います。
買い物は帰りが重くてさすがに大変だから、車を運転してスーパーマーケットまで行くらしい。自分であれれ~おかしいぞって気付かないものなんですかね。
真に不思議、不思議。

でもおばあちゃんが幸せならOKです!👍

幻想~‼ 嘘すぎる話で草

母は夢と現実の境目が曖昧なのか数年前から幻聴、幻覚などによる現実には存在しない話をするようになりました。

例えば、「今日家に3人ぐらい男の人が押しかけてきて怖かった」だとか「あれもう一人家にいた気がするんだけど?」など、これだけ聞くと心霊!?と思うような(一瞬私も心霊現象なのかと思ったことがあります)「ない話」を毎回します。この症状が出てから1年ぐらいは私はこの「ない話」を聴くたびうんざりしたり、イライラしたり、悲しくなったりしていました。怖かったし。

しかし、時間の経過とともに、幻覚や幻聴、その他の認知症の症状によって創り出される「ない話」が、おもしれぇなと感じられるように変わっていきました。

母と祖母は、現実世界に存在しない出来事や物語を語ることが日常になりました。
例えば、母が手のひらサイズの金属でできた筒状のトランスポーテーション装置に入り、遠く離れた場所から私のところに来たと言うのです。

まるで近未来のファンタジーを聴いているようなもので、初めて聞いたときは症状の進行を感じて「認知症が治ることはないのかな…」と泣きそうになりました。親戚から聞かされたので、本当にめちゃ複雑な気分でした。一周周って「無」だったかもしれない。

しかし、徐々に私はその話を笑いのネタとして受け入れることができるようになりました。

なぜなら、認知症患者の話は幻聴や幻覚というと悲しく感じますが、結局のところ「ない話」なんですよ。
だんだんその「ない話」を熱心に語ってる事実がたまらなく面白く感じて認知症患者の話をファンタジーとして笑いながら聞けるようになりました。

幻覚、幻聴に真摯に向き合うって何ですか?話を聞いている。それだけで私は相手に対して誠実ではないですか。

人の話をからかうんじゃない!とか馬鹿にするな!と思う方もいると思いますし、以前は私も認知症患者の話には真摯に向き合うべきだと思っていました。認知症の方への対応を調べるとだいたい「話をしっかり聞いてあげましょう」って書いてありますもんね。

でも、認知症患者の話をファンタジーとして笑いながら聞くのも別にいいんですよ。
まったくもってそれが悪というわけではないのですよ。

あなたとお喋りしている相手の双方が楽しく会話できればそれでいいんです。別に認知症患者をあざ笑っているわけでもないですし。

「ない話」を聴いて悲痛な表情でいるより空想話として聞いてニコニコしていた方が認知症の方にとっても、私にとってもいいと思うのです。

認知症をファンタジーとして楽しむ。彼らにとってそれはリアル。私にとっては非現実。ただそれだけ。正す必要などない。

認知症患者にとって、現実と非現実の境界はしばしばぼやけています。
しかし、それが悪いことばかりではありません。
私たちは現実の制約から解放され、共に新しい冒険に挑むことができるのです。

私は、認知症患者の話をファンタジーとして受け入れることで、笑顔が増え、楽しい時間が増えることを発見しました。

認知症との共存は容易ではありません。今でも認知症を恨むこともあるし、自分もなったらどうしよう、と恐れを感じることもあります。その恨み、悲しみ、恐怖、不安はそう簡単に消えるものではありません。

「受け入れる」というのが私やあなたにとって必ずしもゴール、正解ではないと思います。確かに、よく書いてありますよ。「認知症の方の思い込みを受け入れることで穏やかに介護ができます」などと。
でもね!私はこの介護セオリーに反抗していきますよ!ああいった介護教本は軽々しく、共感、受容が大切と言いますが、それらはそんな簡単にできることではないです!本職の方、かつ、身内でない人の介護だったら仕事だと割り切ってできるかもしれません。
でも私は違いますよ。大学生で、介護のことを習ったことはないし、一銭もいただいてません。
共感できないこと、受容できないこと、山ほどあります。
だから、私はそういうことに対しては「ふ~ん」で済ませることにしました。内心、全然共感してなくても、受け入れていなくてもいいのです。とりあえず、外面だけ反抗しないでいてみる。それだけできれば立派だと思います。まあ、反抗する気力が消えてきたから生み出した術なんですけどもね。

愛している分だけ辛いんですよ。
過去が輝かしいほど、今が暗く見えるものなんです。

「認知症ってそういうものだから」で片付けられてたまるかという、怒りに似た感情もあります。怒りのやり場はないですが。認知症って原因なんてあってないようなものですしね。ストレスでこんなに人が変わってたまるかよ。適当抜かすなよ。いつも認知症について考えるたびそう思います。ほんとにムカつくね。誰を、何を怒ればいいのでしょうか。ストレッサーも特定していいのか、分からない。薄々、分かっているような。明確にしない方がいいような、明確にしても意味がないような、そんな気がします。切ないね。

結局、認知症の本人と聞き手のあなたが楽しければOKです!

認知症の人は話したことを忘れているかもしれませんが、私は私さえ覚えていればそれでいいかなと思います。
思い出話をできないのは確かに残念ですが、相手が私の話を聞いてくれるだけで十分かなと思うのです。そう思うしか感情の処理法がなかったのですが…
結局のところ他人の記憶は覗けないのですからね。健康な人と思い出話をしていても相手が話を合わせているだけの可能性もあるわけでしょう。

私が話すときも私さえ分かっていればOKなのと同じように、認知症の人が話すときも本人が話したいことが話せていたらOKなんです。そう思うことにしました。

こちらはその話を近未来ファンタジーやおとぎ話、怪談として楽しめばそれで1億点です。会話しているその瞬間が楽しければ1兆点特大花丸!

要するに、認知症の本人と聞き手のあなたが楽しくて幸せなら、それでいいんです。

「定期的に顔を合わせなければならない」、「話はしっかり聞いてたびたび相槌を打って、マジレスしなければならない」。そんなことどこに書いてあるのですか?誰が決めたのですか?

あなたのタイミングとペースとスタイルがあります。認知症の人相手だろうが、会話なのですから、もっと自由でよいのです。あなたが何かを我慢する必要はない。あなたが我慢している時点で全てがうまくいってなどいないです。

頭や心の整理が上手くつかなくて、認知症の人の話を楽しめないときは、無理に笑う必要はないです。あなたが幸せであることがこの世で最も大切ですから。

話したいときに話して、今日は余裕あるからあの人の話聞けるな、と思った日に聞いてあげればそれで100点です。適当でもいい。仕事じゃない。お金も貰っていない。真顔でもいい。笑顔で相槌なんて打たなくてもいい。何もやらなくていい。それは罪じゃない。家で頑張るって何ですか?あなたが努力せずにできることだけすればよいのです。

あなたは毎日十分すぎるほどよく頑張っています。大丈夫、リラックスしていいんです。頑張る必要なんてないです。

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