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「罪な天ぷら」

板前の夫は、コロナで緊急事態宣言が発令されると「在宅勤務」になった。板前なので在宅では勤務できないのだが、今まで給料がもらえるのは、多くの料理人が店を畳まざる負えなくなるほど追い込まれているこのご時世、本当にありがたい限りだ。
 よく料理人は家で料理しないと聞くが、うちの夫は家でも厭わず腕をふるう。コロナ前から休日の食卓には夫の作った料理が並び、家族で楽しんでいた。


 それが「在宅勤務」になり、朝から高校生の長女の弁当、朝食、私の昼ごはん、小学生の次女の塾弁、夜ごはんと、家族の食事を毎日毎食作るようになった。長女の弁当は朝6時までに作らなければならないので、早起きが苦手な私には本当に嬉しい限り。思いもかけず日々の食事作りから解放され、夫には悪いけどコロナもまんざらでもないなと、密かに喜んでいた。


 長い自粛期間でおいしい料理は多々登場したが、私が「ああ、板前と結婚して良かった」としみじみ思ったのが、「月曜日の天ぷら」である。コロナ前も天ぷらは夫が揚げていたが、それは休日のこと。しかし「在宅勤務」となり、月曜の夜から揚げたての天ぷらが食べられるのだ。特に春の天ぷらは絶品で、筍、ふき、タラの芽、地物のみょうがと、薄衣に包まれたほろ苦さがなんとも言えず、
「んー贅沢!うまいっ、うますぎるー」と思わず唸ってしまう。
次から次へ皿に出される揚げたての天ぷら。岩塩や、出汁のきいた天つゆに付けて食べる。もう箸が止まらない。ふだん天ぷらには酸味の効いた甲州ワインや、ボルドーのソーヴィニヨンブランを飲むのだが、ほろ苦い山菜の天ぷらには山廃の日本酒の力強い味わいがよく合った。月曜日なのに、酒がどんどん進んでしまう。後ろめたいけど、もう一口が止まらない。


〆の蕎麦は乾麺だが、夫の作った麺つゆがうま過ぎるので、こちらもつい食べ過ぎてしまう。追いがつおをした麺つゆは、凝縮してうま味は強いが甘さ控えめでキレがあり絶妙だ。かくして月曜の夜からたらふく飲んで食べてしまう天ぷらは、背徳感たっぷりで罪深いのだ。
19歳で板前になった夫は、毎朝6時に市場へ行き、夜は客を見送り店を片付け帰宅は深夜12時過ぎ。有給を使ったのは義父が亡くなった時だけで、本当に休みなく働いてきた。毎日、献立を考え、魚を買い、厨房に立ち、客をもてなす、それが彼の板前人生だった。
それがコロナになり奪われてしまった。最初の3ヵ月くらいはまだ平気だったが、だんだんとイライラするようになり、30年近く積み上げてきた板前としての自負が崩れてしまうのではないかと、私も見ていてしんどかった。


秋になり緊急事態宣言が解除され、ようやく日常が戻ったのも束の間、またオミクロンに脅かされている。終わりの見えないコロナに怯える日々。そして増えていく一方の私の体重。一刻も早く終息してくれないと困るんだよ、本当に。

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