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殺意

前提:ここでいう殺すとは嫌悪の象徴であって、実際に生命を奪いたいなどという意味ではありません。

今日は殺意がすごかった。
あらゆるものを殺したくなる。

周りのうるさいガキどもを殺したいし、国語力がなくて話のテンポが合わないやつも殺したいし、概念を殺したいし、古典文学の作者を殺したいし、愚痴のうるさい女を殺したい。

なんかおかしいくらい殺したいなあ、まじ殺すって思ってたら希死念慮(微弱)がやって来て、ついに自分のことも殺したくなったか!殺す!と思った。

こんなこと書いていいのだろうか。普通に考えて気持ち悪いし信用失いそうな感じがある。しかし実際に殺す訳ではないし、こういう感情を書くほうが精神には良いのではなかろうか。

こういうことが異常であるならば大量に人を殺す戦争のゲームだって相当に異常だし、殺意のはけ口を自ら用意していることは十分に優秀なのではないだろうか。はけ口といえば性のはけ口も用意されているべきであってそういうものは規制するべきでは無いと思う。

ああ、Twitterで流れてくるようなくそつまらないどうでもいい話になってしまった。Twitterの議論はだいたい全員が的を外しているのでまじで見ていて不愉快なので、あれも全員殺したい。たぶん自分も的を外している。殺したい。

だんだんほんとに自殺したくなってくる。死にたくなるって言うより自殺したくなるって言う方が実際に不慮の事故的なので死ぬみたいなことは求めてないっていうことになるので、なんか縁起が悪くなくて良いと思った。縁起とか気にするのに自殺したいって言うのはすごくおかしいことではあるが、自殺したいのに死にたくないのは実はよくあることだと思うからそれくらいは許してほしい。

振り返ってみれば最初に自殺したくなったのは小学2年生の頃だったと思う。
腹に包丁を刺せば死ねるんじゃないかと思ったのだが、失敗するのとかが怖くてやめた気がする。
それからも何度か自分の身体のどこを刺したら確実に死ねて、もし見つかっても処置が間に合わない状態になれるかを真剣に考えていた。実行しようとしたこともあったが直前で踏みとどまってやめた。死ななくてよかった。首を吊るのは仕組みがよくわからないし紐を買ったり結んだりするのがめんどくさくてやる気にならなかった。

高校入ったあたりからは自殺したくなってもそれは本当に死にたいんじゃなくてそう脳が思ってるだけだって言い聞かせている。そしたらだんだん自殺の計画はしなくなったし、そもそも死にたいともあまり思わなくなってきたのでよかったと思う。

しかし最近はまた死にたいと無意識に思うようになってきてしまい、どうにかならないかなあと思っている。死にたいとは思うが、なんだかんだで健康に長生きしたいところである。

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