2005 インドネシア・ロンボク島を折りたたみ自転車(Birdy)で旅した話 その2
はじめに
バリから船でロンボク島に渡ってきて、二日目の走行である。
前の日、島の西岸にあるレンバル港から、内陸を突っ切って南岸のビーチまで来た話はこちら。
レイドバックしまくったビーチリゾートに来たのだから、もう一泊ぐらいのんびりしていきたいところだ。しかし今日で自転車で走れるのも最後の日、帰国の途に就くべく島の中心都市マタラムに戻らなければならないのだった。
しからば最後を飾るにふさわしく、島の東岸にあるビーチまで行って最果て気分を味わおう、そのあとで街に戻ろう、というのが今日の行程である。
ひそやかなビーチ
クタビーチを出て丘をひとつ越えると、別のビーチに行き当たった。これがまたいきなり風光明媚のサプライズだ。
クタの砂浜は普通の砂だったが、ここだけは白い砂浜が広がり、海もアクアマリン色をしている。宮古島とかにワープしてしまったかと思った。しかも見渡す限り人がいない。
ここは知られざる穴場ビーチだ、さすがはわたしだ、としばし悦に入る。
そのうち近くのリゾートホテルから車で運ばれてきた家族連れが来たが、それでも付近の人口5人ぐらい。このシークレットスポットをほぼ独占して味わえた。ビーチに関してはもうこれで満足である。
あとで調べたらこのあたりはドンドンビーチという名らしい。どんどん。
アワンまで
東岸の最果て、アワンという村まで行こうと思った。
道はダートかつアップダウンも多くけっこう難儀する。緑の多かった西半分と異なり、この辺りは乾いて荒涼とした風景が続く。農地も少ない。
このあたりにもササク族の集落が点在する。家畜がウロウロしていたり、おばはんがマンデイ(水浴)していたりする。
アワンの村で空腹
ふたたび海が見えて、海岸に降りるすごいダウンヒルの先、どん詰まりがアワンの集落だった。
小さな漁港があって、魚の入ったバケツを頭の上に載せて運ぶおばはんたちが行き交っている。
ビーチ沿いの集落で何か食べていきたいと思ったが、食堂らしきものは見当たらない。誰もここまで来てごはん食べようとは思わないのだ。
あんだけ魚があるんだから焼魚定食とか出してくれよと思ったが、しかしこの先の道沿いも食べるところがどこにあるかは定かでない。
小さな雑貨屋があるので何か買おうかと思ったが、ここも乾きものしかない。
インスタントラーメンならあるよと上半身裸パン1のラフなおっさんが言う。しかしわたしは今この場でなんか食って行きたいんだと言うと、おっさんはよしわかったと言うそぶりでカセットコンロと鍋を出してきて、おもむろにその場でラーメンを煮てくれた。
インスタントラーメンのイートイン。けっこうそういう客がいるのかもしれない(ちなみにカップラーメンは無かった)。
ムジュールまで
アワンからは内陸にとって返し、最果てから中心都市を目指す。
といっても道はさらに険しい。こんなんならダートのままにしてくれてたほうがラクだと言いたくなるような荒れた舗装で、巡航速度が10km /hとかになる。上り坂では通りかかった中学生のスクーターに掴まって引っ張ってもらったりもした。
沿道は次第に緑が増えてきて、農地も目につくようになる。道路も舗装が良くなり、道幅も広くなった。マタラムへ向かう主要道路に無事到達したのだった。
独立記念日のちびっこパレード
着いたムジュールはロンボクに来て初めての街らしい街だ。
街は何やらお祭りムードだった。道路で学校の制服を着たこどもがやたら行進している。
なんのお祭りかと尋ねてみたら、インドネシアの独立記念日だという。
それを祝ってのパレード大会だった。
1945年、インドネシアは日本の植民地支配から独立した、と聞くとそれはまあ日本にひどい目に遭わされて大変でしたねと思いがちだ。しかし日本がいたのは最後の3年間だけで、その前は100年以上にわたってはオランダのさらに苛烈な統治が続いていた。
しかも日本が去った後、オランダは再度インドネシアの支配を目論んで全面侵攻し、1950年まで本当の意味のインドネシア独立戦争が始まる。
(ちなみにバリのデンパサール空港は現地名ングラ・ライ空港というが、これはオランダ軍との戦闘で戦死したバリ島司令官の名を冠したものである)。
オランダ、めっちゃ悪い。つらかったのはもっぱらオランダのせいですからね、日本はそこまで悪くないですよ、という顔をして雑踏を走り抜ける。
主要道路ともなると路面はスムースで、30km /hで巡航できる。
しかしクルマはわたしのスレスレをぶち抜いていくし、バリ島に比べるとマナーはかなりよくない。道もドライバーも今までと同じ国とは思えない(まあそれがインドネシア全土のスタンダードらしい)。
しかしそんな中にあってチドモは我関せずといった感じで片側二車線の道の端っこをぽっくりぽっくりのどかに運行している。
マタラムに着く
主要道をかっとんだおかげで思いのほか早く中心都市マタラムについた。
人口30万以上というから山形より大きい町じゃないか。ごちゃごちゃした町、広い道路。改めて今まで走ってきた道や村が別の惑星のように思える。
田舎を走っている時は行く先々で地元民の「はろー」という声が飛んできたが、このような大きい街だと受けるのはもっぱら胡散臭そうに見つめる視線だ。
今日の行程はここまで。今夜はロンボクにもう一泊して、明日の飛行機でバリ島に戻る。
マタラムはごちゃごちゃした街だし、海岸もめっちゃファンキーなローカルオンリーなエリアで宿も無い。それはそれで面白そうだが、とりあえずタクシーで街を離れ、15kmばかり北のスンギギというリゾートエリアまで行って泊まる。
投宿してスンギギの街に食事に行くと物売りがうるさい。ここはもうそういうスレたところなのだ。最果てエリアは観光客慣れしてなくてよかった。チドモが、牛が、ラーメン作ってくれたおっさんが懐かしく思える。
バリに戻ってボケをかまされる
バリからロンボクへは船で来たが、帰りは飛行機でサクッと帰る。
翌朝、前日にタクシーで通った道をのんびり走って空港に向かった。
乗るのはメルパチ航空という、名前の響きがなんか信頼できない感じのキャリアだ。「パチ」の部分がよくない。
自転車を預けて乗り込んだのは小さなプロペラ機だった。これもちょっと頼りない感じだ。
プロペラ機は頼りないなりにも無事バリのデンパサールに着いた。
バゲージクレイムで自転車が出てくるのを待つ。小さい飛行機で客も少ないから荷物もすぐに出尽くす。しかしわたしの愛車だけいつまでも出てこない。
しばらくするとメルパチのスタッフがやってきて衝撃的なことを言われた。「すいません、あなたの自転車、向こうで積み忘れたみたいです」
やはり信用できなかった。
結局、今日のこのあとの便に載せるので着き次第ホテルまでお届けします、という話になった。ほんとかなー。
その晩は荷造りしたあと夜遅くの帰国便に乗るためデンパサールに宿を取ってあったからよかったものの、このまま乗り継いで帰国してしまうとかだったら愛車と今生の生き別れになりかねないところであった。まったく油断ならない。
夕方、無事に宿に届いた愛車を畳んでケースに詰め、夜遅く空港に向かった。
最後にとんだボケをかまされつつ、バリ・ロンボクの旅は終わりを告げるのであった。
2005 バリ・ロンボクをBirdyで走る 完
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