去る夏を惜しむ歌 マイケル・フランクス 『If I Could Make September Stay 』
森で暮らす時間が多くなると季節の移り変わりにも敏感になる。
八月も半ばを過ぎるとクヌギの葉が茶色がかってきてやがてどんぐりと共に落ち始める。夕方ヒグラシに代わって松虫の声がフェイドインし始める頃、スーパーのビール売り場にキリン「秋味」が並ぶようになる。紅葉のパッケージを目にすると毎年つい買ってしまう。麦芽3割増の濃厚な風味が一気に秋の気配を感じさせる。いやビールの話じゃ無いんだけど。
そのうちに9月が来る。
9月さえ来なければずっと夏休みが続いて遊んで暮らせるのに、みんな9月のせいだ。9月許すまじ。9月を廃止するべきだ。わたしは小学校の頃からそう考えていた。
おっさんになってからは季節がまたひとつ過ぎれば残された人生の時間も減るという感傷におそわれるようになり、別な意味で夏が名残惜しく感じるようになった。ちょっと待ってくれよ8月。もうちょっとこのままでいいじゃないの。
冬から春へ移るときはそのようなエモーションはない。とくに雪国ではそれは無からの再生のメタファーであるから気分もアッパーになる。しかし秋と訪れは、葉っぱが落ちたり、気温が下がったり、いろんなものが下向きになる。祭りが終わったあとのような物哀しさが人をダウナーにさせるのだろう。
わたくしの大好きなシンガーソングライター、マイケル・フランクスはそんな反九月思想をうまいこと歌にしている。2011年のアルバム「Time together」は「夏になったら、ハンモックでカート・ヴォネガット読みながらアーメッド・ジャマル聴いてダラダラ過ごすぜー」と夏ヒャッハー感を歌う一曲目から、これまで彼が世界中で過ごしたいくつもの夏の情景を詠んだ歌が並ぶ。ボサノヴァやジャズのエッセンスを絶妙に散りばめた品のいい音は昔から変わらない。
そんなアルバムの終盤に配されたのがこの「9月を押し留められたら」だ。しめやかな哀感につらぬかれた音にもまして、歌詞も印象的だ。何も夏が終わるぐらいでそこまで儚まなくてもいいんじゃないか、一年待てばまた次のが来るし、と宥めたくなるような内容だ。
拙訳を置いておく。
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このアルバム、どういうわけかサブスクでは聴けない。
このすばらしいアルバムのプロデューサーであり、ジャジーなギターでも参加していたチャック・ローブはその数年後に病を得、61歳にして世を去る。夏は終わり、人は去り、あとには秋風と音楽が残るのだった。
(この曲のギターは在米ブラジル人 ホメロ・ルバンボ)