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「書く」という行為について

いつも文章を書こうと思い立つとき、何かに誰かに伝えたいという気持ちはそこになく、ただ「書く」という行為をしてみたいという意志によって自分が動かされているように思われる。それは急に眠気に襲われるような感覚に似ていて、その気持ちが促す行為そのものに意味も理由も見当たらないけれど、でもその行為を行いたいという気持ちはとても強く、だからこそ眠気が襲ってきたら寝るし、食欲が湧いたら食べるし、したいと思った時にするのかもしれない。そう考えると私はそうした三大欲求の中に「書く」という欲求が入っていて、実質的に四大欲求として、生まれながら備わっていたのかもしれないが、兎にも角にも私のこの「書く」という行為は私という存在の生存には必要不可欠であり、たとえそれが誰かに何かを伝えるという明白な目的がなくとも、どうやらその行為を行うこと自体が私にとって有意義なものであるらしいのだ。

ふと、宮川淳のこんな言葉を思い出す。

作家はなにごとかを伝えるために書くのではなく、そしてコミュニケーションとは作家が読者に伝えることではない。重要なのはこの本の空間であり、この本の成立そのものこそがコミュニケーションにほかならないのだ。  ー宮川淳『鏡・空間・イマージュ』

曰く、書く行為とは読む行為によって、二重化されなければならないらしい。そして逆もまた然り。その二重化には明確は線引きはないが、決して一つではない。いや、そもそもそんな曖昧なものではなく、もっとグロテスクで、もっと複雑なもの、いやはやそんなことはない、それはとても美しく、そして単純なこと。どこまでも一であると共にどこまでも多でありつづける。お互いがお互いを否定し、だからこそ生まれる「本」という空間。まさに絶対矛盾的自己同一。文章や言葉は、僕らにありのままの剥き出しの「生」を教えてくれる。

ならば私が「書く」のは、「読む」という行為があってこそなのではないだろうか。だが私の文章は、私の言葉は読まれるに値するのだろうか。「本は閉じられている時は死んでいる」とどこかの誰かが言っていたような気がするが、ならば私は読まれるかも定かではない駄文をどうして飽きもせず描き続け、あまつさえそれを「自然な本能」だと勝手に自負してしまうのだろうか。

上妻世海は、先ほどの宮川の言葉をベースに、このように記述する。

宮川が言うように、「制作」とは二重化の体験である。描くことは見ることであり、書くことは読むことである。それは媒体との技術的対話である。作り手は素材に働きかけ、そこから何らかの応えを得る。そして、それに導かれながら、あるいはそれを裏切りながら、書く、そして読む、書く、その循環。                    ー上妻世海『制作へ』


私にとって「書く」という行為は自分の内側、それも無意識の領域から生み出される欲求によって促される「自発的」なものであると信じていた。だが本当にそうだろうか。「こんな文章が書けたらいいな」などと望んでそれが実現したことも一度もなかった。構想を練ってから課題のエッセイを書いていてもそうだ。「何か違う」と途中で180度意見をかえ、あまつさえ完成したはずのものを読み直して「納得できない」という理由だけで全てを書き直す。読者諸君(君たちが存在するかはわからないが)もそういう経験はないだろうか。好きな子に少々勇気のいる文面を送って、送ったときは満足しているのだが、返事を待っている間にその文面を読み返して「あ、やっぱりここはこう書いておけばよかった」などと思ったことはないだろうか。またはこんなことはないだろうか。数年前に読んだ漫画やライトノベルや小説を再度読み直した時、大嫌いだったキャラクターのことが大好きになっていたことは。全く同じものを読んでいるはずなのに、なぜこうまで捉え方が異なるのだろうか。同じ人間、同じ書物。それなのに全く別の思いが駆け巡ったことはないだろうか。

ところで諸君はお気づきだろうか。私が「書く」という行為について記述していたはずなのに、気づけば「読む」という行為について論じていたことに。あまりにも自然な話題の移行に筆者自身も驚いていたが、なるほどこれが「書く」行為と「読む」行為の二重化なのだろう。私の文章の読者は常に一人はいた。私は「書いている」主体的な人間であると思っていたのに、それと同じくらい自分自身の文章の「読者」であったのだ。文字という記号を通して、私は「私」と語る。鏡、と宮川淳は言っていたが、とても身にしみる例えである。

だから私が無性に書きたくなるのは、きっと誰かに文章を見てもらいたいからではないのだろう。「私」という人間とお話がしたいからなのだろう。それは古い友人とたまに会話を交わすようなものに違いない。お互いの近況を報告し、苦労を労い、そうして手を降って別れを惜しむ。「私」という人間はたった一人のはずなのに、私は「私」に対して旧友のように接する。一即多、多即一。まさに絶対矛盾的自己同一。私の「書く≒読む」行為は私の「生」そのものに違いない。

では「生」とは、そうした二重化の行為から生み出される生は、僕にとって一体なんなのだろう。西田幾多郎の言葉は少々難解だが、そんな悩める「作家の切り落とし」にヒントを与えてくれる気がする。

真に矛盾的自己同一の世界においては、主体が真に環境に没入し自己自身を否定することが真に自己が生きることであり、環境が主体を包み主体を形成するということは環境が自己自身を否定して即主体となることでなければならない。                              ー西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」

私が「私」を生きることは、環境のなかで自分自身を否定すること。「私」という存在が個体でもオリジナルでもなく、誰かによって支えられ、誰かによって生かされているという意識。それは道徳的な話ではない。他者の(それは人だけでなく動物や植物ひいては無機物にもあてはまるが)血肉を食べ、僕らは自らの身体の細胞を作り替える。生まれた家庭、環境、文化、風習はその後の思想を形成する糧になり続ける。テセウスの船の議論を否定することもどっかのマヌケのように「肯定するわけでも否定するわけでもない」わけでもなく、自身がその船であると感じた時、私は「私」として生きる。そしてまた逆も然り。環境は、「私」の生によって否定される。何故なら環境や他者が私を作ると同時に、私もまた、彼ら彼女らを作り上げるのだから。そうして環境や他者という、神にも似た神秘性が否定された時、初めてそれは「生」を得る。固定された順位も優位性もない、しかし確かな「生」の肯定。それは「否定」という一見ネガティブな行為によって支えられている、まさに二重化。読むこと≒書くことはまさにそうした「否定」という危うくも魅惑的な行為によって「肯定」されているに違いない。

ならば、もし書く≒読むという行為のなかに「生」が宿っているならば、私たちはその行為とこれからどんな気持ちで(できれば神聖な気持ちで)向き合っていけば良いのだろうか。

僕はこの答えを、いつも甲本ヒロトの歌詞に委ねてしまう。

見てきたものや 聞いたこと 今まで覚えた全部 デタラメだったら面白い そんな気持ち わかるでしょう                  ーTHE BLUE HEARTS『情熱の薔薇』

先ほどの「生」は、まず自分というしっかりとした存在を否定するところから始める。「レンマ学」の中で「般若経」を紹介する中沢新一によるこの一節が大きな手助けになるだろう。

「あらゆる事物は相互につながりあっている」という縁起の考えは、「空」の思想として語られている。あらゆる事物は他のものにつながり、他のものによって成り立っているのであるから、どんなものにもそれ自体の自生(自己同一性を支える性質)はなく、ほんらい空である、という考えである。 ー中沢新一『レンマ学』 

「完全なオリジナリティ」など、結局存在しないのである。ダナ・ハラウェイが「サイボーグ宣言」のマニュフェストの一つに、キリスト教的起源への挑戦を挙げていたが、神でさえも結局は絶対的に独立した一つの存在ではないのだ。信者がいて、信仰心があって、聖書があって、供物があって、初めて天に住う父は父たりえるのだ。ノアの方舟のエピソードの最後に神が虹に向かって指を指し「もう私は二度と洪水を起こしたりはしないだろう」と誓ったのは、人類を滅亡させたら供物を捧げる存在がいなくなり、神々が飢餓に苦しんだからというエジプトの言い伝えの名残だそうだ。神という存在がそうやって人との相互的な関係性の中で存在しているというのに、神よりも汚らわしく下等で愚かな人類が「完璧な独立したオリジナリティ溢れる自己」を持つなど傲慢甚だしい話である(ちなみに私は少林寺拳法を嗜んでいるので曲がりなりにも仏教徒なのだが、この怒りに身を任せて書いた文章は、どうかハラウェイ的な皮肉として捉えて欲しい。ところで今こうしてカッコの中に書いている注意書きははダチョウ倶楽部の「押すなよ、絶対押すなよ!」というフリと同じ効果を一部の読者にはもたらすだろうか。「混沌と混乱と狂熱が、俺と一緒に行く」と書いたのは、ヒロトではなくマーシーだったはずだ。私は何を語っているのだろう?兎にも角にもデタラメこそが正義である)。

時を戻そう。(マジカルラブリーの優勝は非常にドラマチックだった。あれは間違いなく「漫才」だろう。そしてぺこぱは芸風が少し変わっていて、さらなる進化の兆しを見たので来年のM1がすでに楽しみである)

書く≒読むという行為が「生」に等しく、その「生」が「空」だとするなら、この書く≒読むという行為は「空」である。意味などないし、そこには確固たる信念もオリジナリティも初めからありはしない。結局は「デタラメ」で、こうして言葉を用いてまるで何か大切なことを書いてはいるように見せてはいるけれど、本当に読者諸君にお伝えしたいのは「目的も理由も意思も、私の文章にはない」ということだけである。課題のessayも馬鹿みたいに呟くツイッターも、昔誰かに書いた手紙も、あまつさえ今度掲載させてもらう試論にすら、そんなものはないのだ。

ならば何故書くのか。

デタラメだった面白い、そんな気持ちが少し分かるからだ。

僕はヒロトやマーシーのように音楽の世界で、ロックにパンクに生きられないと思う。ギターはもう一年やってるけど下手だし、あんな綺麗な歌詞もアツい楽譜も作れないから。

でもロックとは、この意味ばかりを僕たちに求めてくる世界で出鼻を挫かれ、この先も負け続けると知っている負け犬たちが、それでも「明日には笑えるように」歌う「終わらない歌」なのではないだろうか。

歌詞に意味なんてない、歌うことに理由なんてない。でも歌う、それはきっと「聴く」という行為の二重化なのだろうが、その歌う≒聴くという行為が「生」の現れで、ロックがその表現なのであれば心のそこから納得せざるおえない。ロックを聴いているときの高揚感、「生きている」という実感。それは僕にとって紛れもない「本当の話」なのだ。

否定して、否定されて、でも、いやだから生きているという「生」の大いなる肯定。だから私のこの書く≒読むという行為も、ロック、ひいては「生」の現れに違いないのだ。

だからと言って明日からシド・ヴィシャスのようにパンクに生きてけるわけでも清志郎のようにFM東京に対する罵倒ソングを生放送で歌った挙句「ざまあみやがれ!」なんて声高らかに叫ぶことなんてできない。

だからこそ、僕は、いや、僕だけではない、私たちはその二重化された作業を行い続けなければならないのだろう。それはどんな手法だっていい。その先に大いなる「生」があれば、それでいいのだ。生命維持などという生物学的な「生」ではなく、体感的な確かな「生」。書く≒読む、歌う≒聴く、食べる≒食べられる、愛す≒愛される、描く≒眺める、そして生きる≒死ぬ。そうした二重化された行為の中で、僕たちは自分自身を含めた「他者」と対話をする。その行為に意味なんてないから。意味がないことが、酷く面白いから。

最後に僕の長々としたかったるい語りを、美しく魅力的に一言でまとめた文章を紹介して、終わりにしたく思う。意味のない語りの中で、僕は十分に「生」を得たから。

ロマンチックな理由で ロマンチックな方法で ロマンチックな結末の ロマンチックな途中の場面                       ー↑THE HIGH-LOWS↓『ハスキー(欲望という名の戦車)        

                       

少年少女らに、幸あれ






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