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スタンド・バイ・ミー

 現実アレルギーがあるので、普段は美少女しか出てこないアニメしか観ない(自負)のだが、最近は後学のため頑張って実写の映画を視聴するように心がけている。精神を擦り減らして観るからには何かしら蓄積するものがあった方がよいと思うので、こうして文字として出力している。前置き終わり。

 今日は有名な古典作品ということで標題の『スタンド・バイ・ミー』を視聴した。内容はところどころ辟易するくらい下品な上に登場人物が全員イカれている狂った世界観なのに、視聴後には何とも言えない寂寞感と「良さ」の余韻のようなものしか残らないのがズルいと思った。

 そもそも本作品を視聴しようと思った決定的なきっかけは、リコリコのOPに「例のオマージュ」があったからだ。厳密に言うと、それそのもの自体は「オシャレだね」って感じでそこまで興味の惹かれるものではなかったのだが、そのシーンをどういう意味で引用したのか、という演出意図が気になった。結論から言うと、この映画は明確に「死」をテーマとして扱っている映画だったのだ。それが分かった時点で「ああ……」と得心した。錦木、メメントモリの擬人化みたいな人間だもんな。歌の方の「Stand by me」も錦木と井上の関係性に符号する部分があるし、引用としては確かに適切だなと感じた。映えとエモもあるしね。ある程度のキャッチーさは現代では重要だ。

 さて、「線路=人生」というのは、今でこそエヴァを筆頭にして一般化しているメタファーのため読み取りやすいが、本作は徹底して「死」を中心としてすべてが輪っている。主人公のゴーディは唯一の理解者である兄が事故死したことをずっと引きずっているし、そもそも線路を旅した終着点には死体が横たわっている。この冒険は幼年期の原体験であると同時に、人生の縮図と死の追体験でもあるということだ。
 また、登場人物に視点を変えると、本作品は4人のクソガキが中心となって物語を回していくが、実質的に中心となっているのはゴーディとクリスの二人だ。内向的で兄に対して明確なコンプレックスを抱えているゴーディはクリスによって救済され、クリスも自身の家庭環境に壮絶な負債を感じていて腐っているのだが彼もまたゴーディによって精神的に救われることになる。二人は共存関係にあるのだ。

 だが、そうした幼年期の蜜月はいつまでも続いていくものでもない。少年時代の友人関係は、得てして年月の経過と環境の変化で次第に疎遠になっていくものである。だが、そうした関係性が実際的に寄り添うものではなくなったとしても、そうした記憶は思い出としていつまでも人生に寄り添い続け、時に思いもよらない人生の指針として機能することがある。そして、そうした原体験、原風景は大人になってから獲得することのできないかけがえのないものとなる。

 物語冒頭で、大人になったゴーディはクリスの訃報に接することであの少年時代を振り返る。ラストシーンでは、クリスの後押しがあったことで小説家として身を立て、成功していることが描かれている。そうしてある時ふいに思い返すのだ。幼き日々のことを、小さな町が世界の全てだった頃、隣にいてくれた友人のことを。
 あの夏の日の出来事は、色褪せてなお朽ちることなく、いつまでもそばにあり続けるのだ。

 視聴する前はロードムービーかと思っていたのだが、良い意味で裏切られた。定期的に見返したくなるが、観るたびに「クソ下品だな……」と辟易しつつも、他人には「名作だよ」と吹聴したくなる、そんな作品だった。

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