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容疑者Xの献身

 「容疑者Xの献身」を観た。
 一言で感想を述べると、これは「殉教」の物語だなと思った。

 そもそも研究者とは何だろうか。なぜ彼らは研究を続けるのか、そのモチベーションとは何なのか。
 ひとえに、それは「世界に対する崇敬」であり、「信仰」である。世界とは、換言すると自然科学であり、この世界の仕組みそのものを指す。
 冒頭、湯川先生が名前を挙げているアインシュタインも、世界に対する自身の考え方について次のように述べている。

「理性における成功を強く体験した者は誰しも万物にあらわれている合理性に畏敬の念を強く持っている」
「科学、宗教、芸術など様々な活動を動機づけているのは、崇高さの神秘に対する驚きだ」

 つまり、「自然」という対象に対する名状しがたき合理性や美しさ、センスオブワンダーを原点として、地位や名声などの損得勘定ではなく、純粋なる探求心と崇敬を燃料にその身を殉じているのが研究者であると言える。
(このことは湯川先生と石神が登山をするシーンで、頂からの景色の雄大さを「美しい」と形容するシーンにも表れている)

 石神にとっては、花岡がその「自然」という対象であり、文字通り「世界」そのものであったのだろう。その在り方そのものが美しく感じ、信仰すべき対象であった。であるが故に、その信仰に基づいた彼の献身は、とても合理的なものだったと言える。ただひとつ誤算を除けば。
 それは、彼が愛した対象が「自然」という現象ではなく、感情を持つ「人間」であったことだ。

 湯川と石神が意気投合するきっかけとなった四色問題。隣り合う色同士が同じ色になってはいけないという、彼にとって強迫観念にも等しい「前提」こそが誤算であり、また今回の事件の根幹となる価値観だったともいえる。いかな数学者といえども人の心までは推し量れないし、ましてや隣人同士が同じ色に染まってはいけないという前提もない。
 このことは事象に対する観測から結論を導き出す物理(=湯川)との対比となっており、視点を変えれば解けるようになる、という自身の発言としても返ってくるのが皮肉的だ。
(そもそも四色問題は「どのような地図でも4色あれば塗り分け可能である」という定理なのだが、わざわざ「隣り合う色が同じになってはいけない」と言い直しているあたり、制作側からのメッセージを感じる)

 数学者は頭の中だけで完結する、とは湯川教授の言だが、人間を人間たらしめている感情(変数 "i" )を計算に織り込めなかったことが石神にとって致命となった。しかし、それは証明としては美しくなかったかもしれないが、間違いであったかどうかまでは誰にも分からないだろう。
 劇中ラストで、終始冷静沈着に描かれていた石神が、愛すべき神(花岡)を前に慟哭するシーン。これは彼にとっては絶望であったかもしれないが、ある種希望であるとも感じられた。それは、彼が人間を前に人間性を再び獲得できたシーンであるとも捉えられるからだ。

 未知の変数が支配する方程式の解は誰にも証明できない。
 だが、その不確かさこそがどうしようもなく人間的であり、とても美しくあると感じた。


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