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スクリーンと映写機 (2024年1月の日記)

小さい頃から本の虫だった俺は、これまでにおそらく数百人もの著者に出会ってきたわけで、自分の部屋に置いてあるささやかな本棚なんて、とうの昔からパンクしている。
パンクして、溢れてしまった沢山の本は、本棚の上や押入れの中、そして床にまで、小綺麗に散乱している。
部屋の中を見渡すたびに、でかい壁一面の本棚欲しいな、と思う。
こんな状態だから、もし火事が起きたり、ミサイルが飛んできて避難しなければならなくなった時、持っている本の全てを抱え込んで逃げることはできない。
「死因:家中の書籍を全て持参し逃亡せんと試みるも、その重さ故、逃げ遅れ焼死。」というのは、あまりにも滑稽。
生き残った家族犬親戚友人の面子が立たない。
ということで俺の頭の中には、いざという時にこれだけは持っていく本リスト、というものが存在している。
それらの本は、俺の人生にとてつもなく大きなインパクトを与え、人生の舵取りに貢献してきただけではなく、ボロボロになるまで未来永劫読み返され、必要なタイミングでまた新たな気づきを与えてくれるような、絶対に変えの効かないもの。
そんなかけがえのない本の中には、コリン・ウィルソンの『フランケンシュタインの城』とか『右脳の冒険』という本が含まれていて、これらの本は、幻夢でゲームなこの世界を、ピラミッドの斜面を滑り台のようにして楽しんでいくために最も必要な本、と言っても過言ではないと思う。
著者の情報やこれらの本の細かい内容は、面倒だからすっ飛ばすけれど、数年前に購入して読み進めていた時に最も心にズドンと刺さった文章があって、それは「現実とは、スクリーンをただ受動的に眺めている瞬間にあるのではない。現実とは、自ら映写機を握るその瞬間にあるのだ。」というもの。
ページをめくってもその部分を見つけられなかったから、ニュアンスです。
それはともかく、この文章に出会ってからというもの、現実に対する向き合い方が大きく変わってしまった。
具体的に言うと、良いも悪いも目の前の現実から引き起こされる感情の大波に飲まれて大きく上下に揺さぶられていたのが、過去。
それと比較して現在は、目の前にどんな状況の現実が横たわっていようとも、それらに対する解釈の仕方を自分で決定できるようになった。
例えば、大切なデートの日なのに朝窓を開けたら大雨が降っている、みたいな状況。
過去の自分ならば「最悪×10000、靴濡れそうだし、湿気でヘアスタイルは崩壊しそうだし、傘が要るから荷物増えるし。最悪最悪最悪......。(以下永遠)」みたいな感じだった。こんな負のオーラ全開でデートに行くなんて、今考えると最悪。
けれど今は大雨の日でも「本当はこの靴履きたかったけど、今日の店はドレスコードあるわけじゃないし、濡れてもあんま気にならんようにサンダル履いて行こ。髪の毛は、たまにはビシッとポマードでキメてみるか。うおー!雨降ってバルコニーの植物めっちゃ元気そうじゃん!」みたいな感じで解釈できるようになった。
そしてもちろん、目の前に最高で楽しすぎる現実が横たわっている時は、ちゃんとそのことを認識しつつ、思いっきり飛び込んでいって最高な瞬間に酔えばいい。ネオンの切れかけたライブハウスでパンクバンドが爆音を鳴らせば、前の人の肩を両手でガシッと掴んで思いっきりダイブすればいい。
ここ数年間は、継続してこのような現実に対する向き合い方ができるようになることを目標にしつつ暮らしていて、2023年になってやっと、自分が満足できるぐらいにそれができるようになったと思えたから、ここに日記として書き残してみた :)


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