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01 死神

 夜蜘蛛は殺せ。
 数年前に他界した祖母の言葉である。これは地域によって異なり、私が住むこの地域では真逆であったことを約一年前に知った。
 度数の低い酒で無様に酔い、多少覚めたもののこのぶつけようの無い衝動は止まらない。よくもまぁ住まう家まで戻ってこられたものだ。
 木が話しかけてくる。「この高さは丁度良いぞ」と。一時停止を無視する車が怒鳴り散らしてくる。「悔しかったら飛び込んでみろ」と。時間が囁いてくる。「無駄だ」と。

 無性に苛立ちながらラム酒にコーラを注いで乱暴に箸で混ぜる。夜は冷え込むという予報は見事に外れ、事前にセットしておいた暖房は無駄に光熱費を垂れ流し続けていた。更に扉が閉まっておらず、仄かな熱気は余計に溶け続けている。炭酸の抜け切ったコーラは上等な酒を見事に不味くする。煽っても満ちるのは虚無感だけ。
 喪服用のネクタイは畳の隅で粗雑に皺を寄せている。何日前だったか、いや何週間か。試しに巻き付けて引っ張ってみたがどうにも衝動が足りなかったようで、怯えるでもなく涙ぐむでもなくただこの時も虚無感に支配されて煙草を吸って寝たことだけは覚えている。

 最寄り駅に着いた時、尿意を催して駅外の小奇麗にされた公衆便所で用を足した。その時に小さな蜘蛛が便器の上を闊歩し、私に対して威嚇するような仕草を見せた。鬱陶しい。この世で最も忌み嫌う生物に喧嘩を売られた。だが叩き潰す度胸も何も持ち合わせない私は精々唾を吐きかける事しか出来ない。第一叩き潰した所で、奴の体液で身が汚れる方がより嫌である。
 一歩だけ自宅と反対方向に足が進んだ。憧憬の念を抱く廃墟の方へ。しかし子蜘蛛に触れる勇気すら持ち合わせぬ私の右足はすぐ家路へと歩み出し、左手は煙草を取り出した。珍しく火種がフィルターを燃やし、焦げ付いた醤油のような味がした。

 没頭していた趣味は現在一区切りついてしまっている。新たな趣味は今のところ無い。興味があるものはあるが、挑戦できる環境は無い。過去の自分が積み上げた借りを返す為に心を殺そうと藻掻く日々。きっと壊れているのだろうが、壊れてもなお動き続けているから余計に質が悪い。思考も、感情も、恋慕も、何もかも失って機械のように同じ行動を無心で続けられたらどれ程楽だろうか。

 優しさに触れれば、その反動が苦しい。だがしかしその優しさが滾り切らない衝動を抑えてくれている事は否定出来ない、紛れも無い事実である。か細い優しさは犍陀多がよじ登る蜘蛛の糸にさもよく似ている。纏わりつく死神から遠ざけてくれる唯一無二。気の触れた毎夜にその糸を垂らしてくれるのは寝床の愛しのぬいぐるみ。そして私と親しく関わってくれる皆々様。その意図は私が知る由も無いが、それが純粋なものであって欲しいと心から願う。

 進路の先には希望は無く、皮肉にも退路の先に絶望は無い。だが退路へ足を進められるだけの衝動も度胸も、私には無い。

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