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「正しい姿で生きましょう」

 さっき、三日遅れで病院に行ってきた。元々、途中で買い物をして帰ろうと思っていたが、今のこの感情を残したいがあまり帰宅して記事を書いている。
 昨晩、ドス黒い感情を殴り書きし、不安を抱いて眠りに就いたが、何とかいつも通り目覚め、少し遅い時間に散歩に出た。狂気の友人Mに珍しく変顔の自撮りを送り付けてやったら、偶然にも近所の後輩(同級生感覚)と会い、煙草数本を吸って語り合い、背中に湿布を貼ってもらうことと、晩御飯を共にしてくれるといった話をして帰宅し、筋トレをして温い風呂に浸かって病院へ行った。
 三日遅れになったことを謝りつつ、いつものように近況報告を先生にした。前回が七日だったため、失恋した八日以降、嬉しいことがたくさんあったこと、気持ちが落ち着かない時もあったこと等、沢山話をした。
 その中で、最もここに残したかったのが先生の言葉である。

「不器用ってすごくいいじゃないですか。器用な人は色々寄り道をしながら最善の道を進む。けれど、不器用な人は、最善でなくても自分の思いのまま真っ直ぐ進むでしょう。それでいいんですよ。」

 この言葉に、涙が出そうになった。支払いを済ませ、薬を受け取り、上司に報告の連絡を入れ、煙草を一本吸い、車に乗って一番聴きたかったDEZERTの「true man」を流して運転し始めた時、堪え切れずに泣いた。たまたま近くに和菓子屋があったので、そこに一度車を停めて、ひたすらに泣いた。

https://open.spotify.com/track/7rkbugr5d2rkJQdECFttkZ?si=c93064f4b1924b80

 読者の方々は、どんな時に泣きますか?
 悲しみに打ちひしがれた時。
 あまりの喜びに満たされた時。
 感動する映画を観て、心が動かされた時。
 俺が思い浮かぶのはこんな時だが、今回思いっきり泣いたのは、そのどれにも当てはまるとは思えなかった。強いて言うなら二番目が近しい気もするが、少し違う気がする。
 涙も治まり、運転しながら考えていた時、一番近い感覚が分かった。
 この世に生まれ、命を授かった瞬間のことを覚えているだろうか?
 きっと、泣いていたと思う。今回の涙はその感覚が最も近しかった。昨晩の記事で、生きる理由が見当たらない。分からない。何故生きているのか。そんなことを書いた気がするが、そういう意味では、生に執着してこなかった俺が、改めて命を授かり直したような感覚だった。
 それ故、「true man」の歌詞と先生の言葉が突き刺さった。俺が生きていたい理由は至極単純で、誰かから心からの「ありがとう」が欲しいだけだったのだろう。上辺でなく、心からの。
 それを貰えた時、至高の喜びを感じる。それを貰えた時、それはエゴでも何でもなく、自分の行動の成果が得られ、感謝の気持ちを受け取れたと感じられるからであろう。
 今まで、何となく考えていたことではあったが、今日あの時、それがとても鮮明に見えた。「利他的」に生きることこそが、俺にとって「利己的」なのだと。あの子の言葉通り、俺は「利己的」に生きさせてもらうこととしよう。
 迷惑だったら直接言ってくれて構わない。俺は誰かから「ありがとう」を頂く為に生きていこうと思う。それが迷惑なら、やり方を変えるなり止めるなりするだけだ。
 この気持ちは天気が良いお陰だろうか、風通しが良いお陰だろうか?(風に関しては強すぎて洗濯物が吹き飛んでいたが。)それは物理的だけでなく、心理的にもつっかえていたり、もやもやとしていたものが吹っ切れて晴天となり、風通しが良くなったお陰だろう。
 さて、遅めの昼食を簡単に作って食べよう。まだ薬と付き合っていく生活は続くが、今日俺の中で何かが変わった。その変化を大切に抱き締め、涼しくなる夕方辺りからまた、炊き込みご飯と焼き豆腐を振る舞うために、外へ出よう。大切な友人の一人であるSの言葉を借りるなら、滝行後の「清々しいね」が今の俺に一番合う。


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