「夢」というものの在り方


「夢」というものには一切の濁りがないような響きを感じる。それは誰にとっても特別とされ、混じり気のない希望に満ち溢れているもの。そして誰しもが夢は持つべきであると思い、夢を持つことは大変素晴らしいことであると考えている。


無論、自分も夢は素晴らしいと思っている一人だ。
夢が人に与える様々な影響力は計り知れず、自らの人生を設計するにあたってそれは非常に強力な指針となるだろう。すなわち人生の幸福を左右するものといっても過言ではない。

夢というのはこれほど強大で、人生にとって極めて重要なカテゴリーなのだと...しかし強力すぎるものにはやはり両極が存在するのだと、そうとも捉えてしまう。

包丁は料理に使えばこれ以上にない便利な道具だが、少しでも使い方を誤れば人の命をも奪うことができてしまうのだ。


僕は夢をきちんと正しく使えているのだろうか。




これから綴ることはあくまで自分自身の完全な主観であることを主張しておく。今後、この文章において自分は一切中立な立場で考えることはなく、自らが感じたことを率直に意見する。



僕は、何かに夢を持ちその夢に向かってひたむきに努力を続ける人が大好きだ。そして自分もそうでありたいと願っている。
また、夢について熱く語る人も大好きである。自分の人生に希望を持ち、前向きに考えている人はとてもエネルギッシュで周囲に良い影響を振り撒いている。
こうした人の話にはすごく興味をそそられ、沢山聞きたいと心から思う。そこから何かインスパイアされるものがあったり、その人の羅針盤を学ぶことによって得られるものの大きさや価値を十分に感じているからだ。



ただ、行動が伴っていないものは例外である。



スタート地点で延々と繰り返される理想。


現実と大きく乖離していて、何の現実味も具体性もない無謀。


そもそも夢という名の妄想を垂れ流すことに優越感を感じているものなど。



口では何とでも言える。
さらにそういう人に限って行動が伴っていない人が多すぎる。


これはなぜかというと、人というのは不確実な未来に対して良い方向に進むと思い込んでしまうバイアスがかかってしまうからだ。

未来はきっと良くなっていると、そう盲信してしまう。これは人間である以上、仕方のないことだ。勿論僕もそのうちの一人である。
何の根拠もないのにも関わらず次こそは上手くいくと盲信し、目先の欲に溺れ、衝動的な行動をとり、取り返しのつかない後悔も何度あったか数えきれない。


また輝かしい未来を語る時、僕らはドーパミンの快楽にも溺れている。よく勘違いされているが、ドーパミンというものは快楽のホルモンではない。「期待」のホルモンだ。
現在直面しているこの辛い現状を乗り越えられれば、きっとより良い未来が待っている。そうした未来への期待によってドーパミンが分泌され、夢を語る行為そのものに快楽を感じてしまっているのだ。

この罠にハマるとなかなか抜け出せない。
人は快楽に弱い生き物である。

僕たちが当たってもいない宝くじに対して、1億当たったら何に使おう...などと考えてしまうこともこのせいだ。

夢を買うとはまさによく言ったものだ。



つまり、重要なのは「夢」そのものではない。
その夢に向かうプロセスが大切なのだ。

その夢を現実にするためのロードマップを敷くことが肝心であるのだ。
しかし、多くの人がこのシンプルな真実に目を向けられていない。だから巷では薄っぺらい自己啓発の怪しいセミナーや情報商材が溢れているんだろう。
それらが蔓延るには、対象となりうる弱者が必要であり、実際に搾取されているからこそ存在できているのだから。

自分は武道を続けてきた身だが、やはりそういった小手先の技術や、信じるだけで強くなれるなどというスピリチュアルなことは一切通用しない。強靭な肉体、洗練された技術、不動の心、これら心技体が揃って初めて武道家と名乗ることができると思う。
そしてこれはどの分野にも共通することだと痛感する。

建物も土台がしっかりしていないと崩れてしまうように、人間も立派な夢を語るに値する器、人間力がないと望む未来を手にすることができないのである。


「信じていれば夢は叶う」という妄言に支配されていては、一生その夢は叶うことがないであろう。


僕はMOROHAというラップユニットが好きなのだが、彼らの曲に「三文銭」というものがある。
その曲のサビでは「DreamはComeしてTrueにならず、DreamはGoしてTrueにして行く」とある。

待ってるだけでは叶わない、自らが動き掴みにいかないと実現しないのだ。Trueに"して行く"という自発的なアクションがあってこそのみ、夢は掴むことができるのだ。



人の意思というものは我々の想像以上に脆弱である。


内向の部分だけで実現されるものなどたかが知れている。人が変わることができるのは行動が生じたときのみだ。


上述した自論は自分自身もしっかりと胸に刻み、行動を続け、生きていこうと思う。



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