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マニュアル人

エンジンをかけるときには、気をつけないといけない。クラッチペダルを踏み、ブレーキを押し込んで、ギアがニュートラルに位置しているのを確かめ、ハンドブレーキが一番上に来ていることを認める。すべてを確認できて初めて、両足をペダルに押し付けながらキーを回すことができる。エンジンが回りだす音が車伝いに分かって、油圧の変化に合わせ、力を入れているブレーキペダルが少しずつ沈み込んでいく。

これは、日本でマニュアル車で免許を取得するためには、まず覚えなくてはならないことだ。法律と交通ルールは厳密で、その厳密さの中に入っていくためには、手順も厳密に覚えなければならない。
左折するときは左に合図を出す。ナンバープレートを外した車で道路を走らせることはできない。一般道路で時速60キロメートルを上回ってはならない。そういう他の交通ルールと同じように、手順も守られるべきものといった扱いがなされる。手順を守らなくても死にはしないけれど、守らなかった結果、不慮の事故が起こると死んでしまう。

自動車教習所の教官は厳しい。初めのうちからできるわけがないマニュアル車の場内練習で、ああしろこうしろと際限なく指示をよこす。当然手や足が追いつかなくなる。流れを記憶して一人でできないと、呆れた声が助手席から聞こえる。体験したことのない厳しさ、失敗への恐怖と不安から、いま、自分は刑務所にいるのか? と誤解した。何人かの教官からちがった教習を受けて初めて、ちがう、これは車の教習だ、と再確認できた。
一方的に感情をぶつけてくる教官は「教え子が交通事故に遭い、かつては優しかった教え方が、厳しくならざるを得なくなった」と考えることで、やり過ごすことができるようになった。だれだって、教え子が事故に遭えば厳しくなる。彼には彼なりの事情があるに決まっている。

ルールを守らなくてはならないのは、車だけに限らない。人間は、人間同士で交通事故を起こす。ぶつかるのは身体ではなく精神で、車みたいに一部のパーツを取り替えたりできない。人間は不可逆なのだ。
そのルールとは、法律やマナー、モラルのことではない。社会の中に散乱しているだれかが作ったものではない。自分の中にあるものだ。ルーティン、ペース、タイミング。守らなければ、秩序が乱れてしまう。法律は多くの人が守ってくれているが、自分のルールは代わりに守ってくれる人がいない。内在律とでもいうべき、内なるリズム感だ。他でもない心臓の鼓動の速さそのものだ。

気をつけなくてはならないのは、他人によって乱されないようにすることだ。自分の中にあるグルーヴにしたがって、アクセルを、ブレーキを踏む。もちろんほかのひとの作ったルールも守らなくてはならないが、それは自分がつくったルールを守ったあと、その次の段階だ。オートマチックに動くのではなくて、マニュアル車のように手順を守り、それから発進するほうがいい。

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