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母なる大地と逆アンパンマン『メイドインアビス 烈日の黄金卿』の感想

冬の低気圧はマジの体調不良になるので法律で禁止して欲しいです。メイテイです。

メイドインアビス2期観ました。非常によかったので感想を書きます。

Netflixでの2期の配信に気づいていなかったため、全話揃ってから一息で観た。そのせいで中盤の話の濃さに完全にやられ、半日のあいだ食欲がなくなった。メイテイが記事を書くには十分すぎる満足な内容だった。

※この記事はネタバレを含みます。

1期より映画よりグロい

過去とリコたちを繋げていくストーリー演出の巧さもさることながら、アビスの不気味さ、圧倒的な残酷さが時空を超えている事実に鳥肌が立った。

画面が、そして音がすっげグロい。すっげグロいんだけど慣れてくる。慣れてくる自分がこわい。映画を経てから、グロさに味をしめてる気がしてならない。肉の音とか何回聞いたのか数えたくもない。
ミーティ回がかわいく思えてくる。血で血を洗うなどという生易しいものではなく、臓物でできた束子を使い、はらわたを洗浄するようなえげつなさ。

そして、見た目のグロさより心にクる系のグロさが多い。
子供を産める身体を願ったイルミューイはそれを叶えた。が、束の間の絶頂、幸せの頂点を味わい、長く生きられずに死んだ我が子を見て、今度は絶望の底に叩き落とされる。
なんだこれは幸せと絶望の反復横跳びか

その子供を奪い、自らの寿命を伸ばし、指を咥えてみているしかないヴエコ。大切な存在が最も愛した生き物を、自分のために奪い続ける
ぜんぜん直視できない。苦しすぎて。

それでもやっぱり見ているうちに慣れてくる。そして慣れてくる自分が、またこわい。決死隊の主要メンバーを一人残らず酷い目に遭わせんとする作者の覚悟に、畏怖すらおぼえる。

逆アンパンマン

こんな青年をご存知だろうか? お腹が空いている子どもへ「僕の顔をお食べ」と、肉体の一部を躊躇なく差し出す、ボランティア精神あふれる彼。
名前はアンパンマンである。顔があんぱんになっており、彼の顔の一部からは、十分なカロリーと糖質を摂取することができる。

とりわけ烈日の黄金卿でアンパンマンを連想させたのは、村人がファプタに、自らの身体をちぎって差し出すシーンだ。弱ったファプタを元気にするため、切り取った自らの身体の一部をささげる村人たち。その場では、みんながアンパンマンになっていた。

セリフにもあるが、さっきまで村を滅ぼそうとした存在だったのに。まるで贖罪のようでもあった。「あなたを食べて私は生きたのだから、私を食べてあなたは生きて」と言わんばかりに。

他方で、ふだんのアビスでは正反対のことが行われている。私ちからでない、お前の肉よこせ。ギヴァー、テイカーで言えば、テイカーが多い。原生生物たちは、さながらすべてがあべこべのアンパンマン逆アンパンマンだ。弱肉強食を世界観としている。

生態系は社会性を帯びれば、途端にそれが資本主義のように見えてくる(実際、価値を基準とした村の市場は資本主義にしか見えない)が、村本来のそれはもっと原始的なシステムである。
価値になるのは己の肉片そのもので、通貨はあくまで便宜上一種のカーストのような生態系ピラミッドが、肉塊それぞれの価値を決めている。

アビスでも同じだ。パワーバランスが崩れることはない。リュウサザイは誰にとっても脅威になり得るし、メイニャはどう見ても人畜無害だ。村人にとってファプタは最大の脅威だが、リュウサザイにとっては格下の相手となる。

アンパンマンは弱者にしか施さない。それは社会性が必要な富の再分配であり、強者の知性あってのものだ。
アビスでは違う。知性それ自体では意味をなさない。弱いもの、知見のないもの、経験のないものは容赦なく食い尽くされる。

決死隊が赤痢のようなひどい症状に苦しみ、身体が金属になっていったのは、生態系を表した縮図、その氷山の一角にすぎない。
自然界は厳しい。ましてアビスならさらに厳しい。そのピラミッド型の生態系が、アビスや村を形作っている。アビスの原生生物はみな逆アンパンマンなのだ

余談だが、決死隊の名前が「ガンジャ」なのがどうしてなのか、インターネットの海ではわからなかった。大麻の隠語がそれである。語源になっているか不明だ。単純に響きで決めているような気もする。

イルミューイ、母なる大地

腹を痛めて産んだ子供を決死隊の血肉とし続けたイルミューイは、膨らみ続けた。願いが叶う魔法のたまごを、ワズキャンが連投したせいだ。

そのうちにイルミューイは生き物かどうか怪しくなる。生命の樹ともいえる樹木のような、柱のような形になり、村の地形そのものを形成していく。

まさに、母なる大地だ。

ゆえに、烈日の黄金卿でのイルミューイは、村の母である。

比喩ではない。決死隊全員が子供を食べていることから、村人の血肉のほとんどはイルミューイの子供でできていることになる。この事実が、ゾクゾクするほど気色がわるい。怒りと憎悪と吐き気で食欲がなくなる

だがそれによって、決死隊もまた、イルミューイの子供だと言える。仮に母になることがイルミューイの本当の願いだったとしたら、直接産み落としたわけではないが、幸せな形で叶ったこととになる。村一つ分の命を、母の手一つで育て上げたのだから。

本来、「母なる大地」は大地を擬人化した言葉だが、イルミューイの場合には順番が逆だ。人が大地に成る。母が大地と化す
それがあまりに生々しい。ゆっくりと行われる生贄を捧げる儀式のような、気味のわるさがある。

村の中にある力場が干渉しない空間は子宮だ。その外側は母親の体外だといえる。
当然、ウイルスや外傷の危険など、外界では致命的なリスクを伴う。だが母の胎内であれば安心だ。村はそういうつくりになっている。

最終的には村は滅ぶ。だが、それにはイルミューイの物理的な崩壊もともなっている。

それは子供達にとって、親の死である。
自立できなかった村人たちが自然界で生き残れないのは、至極当然のようにおもえる。村人たちはこども部屋おじさんのような存在になっている。

母の死がファプタの手によるもので、寿命ではないことが村人たちを擁護する理由になるが、そうは言っても猶予はあったはずだ
村の中での生活に甘んじていたのは村人たちの意思であり、そこから出られないにしても、子宮に穴を開けようとはしなかった。

母なる大地に甘え続けた結果、村は当然のように滅んだのだ。

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