【おまけ】宇井伯寿

こんばんは。じょーどの赤坂です。

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前回の田村円澄先生の続きは、またそのうち読むとして、そのへんは流動的に同時並行で行きます。

宇井伯寿『信仰仏教』(要書房・昭和23年)

宇井伯寿(1882~1963)先生は、曹洞宗の僧侶で日本を代表する仏教学者です。お墓は多磨霊園にあるんですね。浄土宗とは特に関係ない方です。


目次は(1)仏教を信ずる所以、(2)十七条憲法の一節に就いて、です。(1)が紙面の大部分のなので(100頁くらい)、そちらの感想を。


仏教を信ずる所以

実在たることが証明せられなければ信ずるを得ないと主張するのは冠履顛倒※である。存するから信ずるのではない。信ずるから存するのである。何ものか存するが故に信じ、存せざるが故に信じないといひ得るものが、吾々の経験の中に見出され得るか。(95頁)※上下の順序が逆になっていること

いやまあ、三宝(仏法僧)についてが中心だけど、はっきり言って内容が難しい。『信仰仏教』ってあったから興味持ったけど、これじゃ信仰に入れないよ!!理屈は何となくわかるけど。

それでもまとめに気になる部分がありました。



たしかに目に見えないからといって、その存在を否定することは出来ないと思います。電波など目には見えませんが確かに存在します。


ただ浄土宗的には「存するから信ずるのではない。信ずるから存するのである」とは、ちょっと意味合いがおかしくなりそうです。

「(阿弥陀仏が)存するから信じ、信じるから(阿弥陀仏)存する」

と考えるのが当然だと思います。仏説である『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』を中心に、膨大な経典の至る所に阿弥陀仏の存在を確認することが出来ます。これを「諸経所讃多在弥陀」ともいいます。

さらに、目に見えない阿弥陀仏の存在を、念仏の中に感じることも、決して不可能なことでもありません。その宗教的境地を法然上人は「阿弥陀仏と申すばかりを勤めにて 浄土の荘厳見るぞ嬉しき」と詠まれています。

ただこの宗教的境地は誰しもが得られるわけではなく、それを求めるために念仏をするわけでもありません。ただ、念仏を称える生活は、例えば”安心感”といった言葉に表すことのできない体験による実感を、誰しも得られると私は考えます。

自分自身の”煩悩”を実感することもありましょうし、阿弥陀仏への”誠の想い”を実感することもありましょう。そういうことの積み重ねが、人格仏である阿弥陀仏の、現に生きる働きかけを感じる第一歩じゃないでしょうか。

ではまた。共生合掌。

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