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ボロが出る

 大きな雨が降って、村は濃霧にすっぽりと覆われ、景色が小さくなった。

 ここに移り住んで、小作人として牧場の整備や畑仕事や子供と遊んだり、家事をしたり自分では楽しんでいたつもりだったけれど、はたから見てると自己犠牲的で不安を感じさせてしまっていたみたいだ。そろそろ自分自身のことも進めていかないといけない時期になってきたのかも知れない。
 話し合いをして、お互いの気持ちを知って、ここを離れることになった。と、言っても近くのどこかの空き家を借りて住んで、まだわからないけれど牧場を手伝いつつ自分のことも進めていくと言った感じだと思う。自分自身がどうしたいかはまだ、良くわからない。


 話し合った内容は殆どがコミュニケーションの話だった。何が原因なのかは結局わからないけれど、コミュニケーションが切断されていて、そのまま放置すると取り返しがつかないことになる可能性があるとのことだった。それは良くわかる。子供や馬や自分達だけでは生きていけない生き物達は、発するメッセージも微弱で耳を傾けて続けないと、すぐに死んでしまうし、大人同士で我慢したり、どちらかに負担が傾いているような状態を長く続けているとその溜まったエネルギーがどこかに暴発する危険性がある。だからこそ対等なコミュニケーションをし続ける必要がある。という話。そこまでは良くわかる。でも、どうすればそのコミュニケーションを持続可能なものに出来るかはわからなかった。
 僕はここでそのコミュニケーションを構築するための順番を考えたい。自分の経験則から考えると恣意的になるかも知れないけれど、いきなりその対等なコミュニケーションが出来る状態に持っていくのは、それぞれ様々な経験をして、複雑な個性がある人間同士には難しいように思う。当然だけれど互いのことを理解しなければ、或いは理解しようとしなければ、それは壁に向かって話しているのと何ら変わらない。では、理解する為にはどうすれば良いか。
 僕はただ、先入観なく観察すれば良いのではないかと思う。些細な行動一つ一つ、いかに学校教育や過去のトラウマに束縛されたものであってもその事実を受け入れて同じことを子供や小さな生命に繰り返さないようにしようとしている人間は言動が違ってくるはずだし、そこに無理が生じているのなら、それは如実に現れる。観察し、ただそういう人間だと理解する。しかし、それは常にあらゆる要素によって変化し続けている。その度に認識を改め直す必要がある。でも、僕はそれで良いと思ってるし、自分を含めた全ての生き物が発展途上であることに希望を持っている。時には悪い方向に傾くこともあるだろうけれど、自然や、馬や、子供達に学び続ければ間違うことはない。
 そういう意味でボロ(馬糞、或いは本音)が時間が経ち目に見えないもの達の力を借りて発酵して、新しい生命になる過程が目で見えて感じられる環境を作りたいという気持ちは今も変わらずにここにある。

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