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聴く楽しみ 演奏する楽しみ 〜演奏する〜

聴く楽しみと違って演奏する楽しみはある種の痛みというか負荷を伴うと思う。
(曲や音楽のジャンルによっては聴く方も負荷になることがあるけど)
演奏する楽しみの要素として考えつくものを挙げてみる。

楽器、または自分の身体

歌うことも含めると身体もあるよね、ということで。
手近にあれば触ってみる、音を出してみる。
スケールとかロングトーンとか基礎練習的なことだけも楽しいし、知っているフレーズを吹いてみたり弾いてみたりして「おっ、できるね!」というのも。
 少し行儀が悪いけど、自分の歩く足音と傘で鉄柵をカラカラ当てる音で絶妙にシンコペーションを作ってみたりするのも、ある意味音楽の楽しみなのではないか。
自分の「マイ楽器」。絶対必要かと問われるとちょっと答えに窮してしまう。学校の部活動だと学校備品の楽器で学生生活を通り過ぎることだってできるし。
ただ無いよりは「あると色々良いことは多いよね。」と思う。
 「負荷」というと、やはりお金であろうか。決して安い買い物では無いから。楽器のサイズによっては保管場所、練習できる空間の確保とかも懸案になる。練習場所だけなら近所の公民館やカラオケボックスなど選択肢はあるよね。
 ちなみに「緑豊かな公園で微風を感じつつホルンを吹く、またはチェロを弾く」のが憧れだけど、なかなか実現できない・・・。

楽器(または身体)を扱う技術

「合奏は楽しい。上手に深ければきっともっと楽しい。」
これは常に思っていることである。より多くの音をより多彩な雰囲気で出すことができればより多くの曲をより正確に美しく演奏できれば、聴く人のみならず演奏していても楽しい、はずだ、と。合奏になるとさらにそこには「アンサンブル力」なるものも大事になるのだが。
 ただ技術を使いこなすためには間違いなく「練習」が必要になってくる。練習したとて容易くそれが自分のものになる保証などどこにもない。それでもより美しく演奏したい(のにできない)曲は、できない箇所を拾い上げて繰り返したり、時に基礎練習に立ち戻ることさえある。
 演奏する楽しみに立ち塞がる最大の「負荷」かもしれない。

楽譜、それを読む力

楽譜、なくても良いっていう人は多分いるし、読めなくても演奏に困らないという人もいるだろう。

敢えて言おう。

読めた方が絶対良い。

本当なら中学校までの音楽の授業があるのだから、当然楽譜も読めて然るはずなのだ。だが現実には大学の合唱部でさえ楽譜が読めずに個人練習ができない部員は少なからずいたし、アマチュア吹奏楽団でも打楽器セクションの人は「五線譜が読めない」という人もいた。

知っている曲の合奏を練習するならば、半分くらいは知っている曲のフレーズをイメージしてなんとなく演奏できてしまうかもしれない。しかし全く知らない曲を演奏するとき、頼りになるのは基本楽譜なのだ。音源を聴いて練習の手助けにするとしても、譜読みなしに曲を完成させることはおそらく不可能であろう。

楽譜を読むことが負荷だった記憶は、残念ながらほとんどない。
ピアノを習い始めた最初の1年くらい、確かに読んで弾くことが大変だった時期は確かにあったのだ。毎週のレッスンに向けて、時に不貞腐れながらも自分で譜面を読んで鍵盤に乗せる作業を地味に続けた結果、1年後にはなんとなく、ゆっくりスラスラというペースながらト音記号とヘ音記号の楽譜を読むのが、国語の教科書を読むのと同じくらい普通の作業になっていた。
「慣れ」なのだろうか。

聴いたことのある曲に、演奏者として「再会する」面白さ、一方で知らない曲に出会ってしまう面白さ

これは「負荷」というより、演奏できることでしか味わえない楽しみだと思っている。
聴いていて好きな曲が楽団の演奏会のプログラムに採用されて、自分のパート譜を手にしたときの不思議な高揚感。
演奏してみて泣きそうなくらい難しかったときの絶望感。
CDやホールの客席から聴いていた曲が自分のすぐ周りで結構な音量で聞こえてくる、しかも自分もその音の片棒を担いでいる、これは演奏しないと経験はできないだろう。
 その一方私はクラシック音楽に類される曲への造詣もそんなに無いので、オーケストラに入って7年経った今もプログラムの曲は「知らない曲」の方が圧倒的に多い。シーズン直前の譜読みは正直苦しい。初めての合奏なんか練習に行くのが憂鬱ですらある(笑)。それでも合奏の音を聴いてしまうと楽しいのだ。
「こんな曲なんだ!(予習はしているけど)」
という感動を演奏しながら体験できるのは、やはり「演奏する楽しみ」ならではだろう。

まとまらないなあ・・・。

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