見出し画像

穴を埋めることはできないけれど

左の親知らずを抜きました。横向きに細かい根を張っていた厄介な生え方もあってか、手術の直後から頬が腫れ始め、翌朝には頬がぱんぱんに膨らみました。

マスク社会に心から感謝するとともに、励ましをいただいた友人・同僚・クライアントのみなさまの優しさが沁みました(実はこれが人生初のメスが入る手術だったので、けっこう怖かったのです)。

自分の身体から何かを失う体験を終えて、最近もやもやとしていた「心の喪失・心の穴埋め」について考えがまとまったので書き残しておきます。


私にとって春は喪失の季節です。春を目の前に旅立った父、春まっさかりの祖父の命日。生死を分かたずとも、春を境にした別離もなぜか多いのです。

こうした喪失に耐えられず、いままでは失ったものを「埋め合わせ」るように何かに没頭してきました。ぽっかり空いた穴に土を戻すように時間を埋めることで、思い出や寂しさが頭をよぎらないようにしたかったのです。

穴を埋める多くは仕事でした。昨春は不摂生もたたり、身体が不調をきたすまで働いてしまいました。この喪失感を人との会話で埋めようと、友人に助けを求めることもありました。


でも今年、父親という大きすぎる喪失の穴に直面した私は悟ったのです。失った何かをほかのもので埋め合わせるなんて、どだい無理なんだということに。

もちろん、喪失の苦しみのなかで仕事や趣味に打ち込んだり、誰かを求めたりすることは決して悪ではないと思います。でも、それが喪失をパテのようにすっかり埋めてくれて、穴ぼこのない自分に戻れるかといえば、そんなことはないんですよね。残念ながら、喪失の事実は消えないのですから。

とはいえ何かに夢中になることや、他者とともに日々のよろこびを見つけることは、喪失の生々しい痛みから意識を逸らしてくれます。私は、それらは穴ぼこの隣に咲く花のようなものではないかと思います。喪失を埋めようと花をちぎってみたって、パズルのようにぴたりとはまる日はいつまで経っても来ません。だって失ったものとまるっきり同じものはありはしないのだから。

何かが穴を埋めてはくれないけれど、それよりも素敵なものがある、と目を向けさせてくれることに意義があるのではないでしょうか。


ならば、喪失が埋まる日はこれからも来ないのでしょうか?

私はそうとも思いません。今の身体感覚がそう語るからです。手術で引っこ抜かれた親知らずはしばらく左顎の穴として残り、私の頬をぱんぱんに腫らしてくれました。

それでも1日2日と経つたびに出血はおさまり、食べられるものが増え、手術から1週間が経つ今はすっかり元通りです。

縫い合わされた歯茎の下にはいまだに穴ぼこが空いていますが、それも安静のうちに少しずつ埋まっていくはずです。心の喪失もそのように、傷を塞いでいく日々のなかで、ゆっくりと小さくなっていくのではないでしょうか。


なにが言いたいかというと、喪失それ自体をほかのもので埋め合わせようとするのは難しい。

一方で、喪失の痛みを和らげることには意味があるし、そのうちに喪失の傷はみずから少しずつ埋まっていく。


ということを最近考えています。

夜中のつぶやきなので恐ろしくまとまりがありませんが、最近思うことを綴ってみました。みなさまよい夢を。

全ての記事は無料でご覧いただけます。もし有益だと感じる方や応援くださる方がいらっしゃれば、サポートいただけましたら幸いです。