青森へ、孤独を買いに来た
東京で桜が満開になった年度末。季節を逆行するように北へと向かい、私は青森県・八甲田山にいます。
1週間仕事を休んで、雪深い温泉宿に引きこもることにしました。
何をしに?
孤独を買いに。
悲しむための余白を買いに来たのです。
死を悼む余裕のない日々でした。
2020年は本業・副業ともに慌ただしく、目の前のことに必死に向き合っていたら、瞬く間に年を越していて。
そして迎えた2021年。2月12日、金曜日の夜更け、闘病中の父が世を去りました。私は実感のないまま「こんなご時世なのに、親の死に目に立ち会えてありがたいことだ」なんて思いながら、週明けから仕事に戻りました。
「無理しないでね」「お気遣いありがとうございます」
「まだ若いのに」「病気はわかってたので、覚悟はできてたんですけど」
「こんな時くらい休んだら」「働く方が親孝行かと思って」
周囲からの心配の声に感謝しつつも、それを平気そうな顔で打ち返しました。親が死んで泣き暮らすような歳でもない。仕事に穴を空けるなんて、働き者だった父に顔向けできない。穏やかに。平静に。順序を大切に。春が来るように気持ちも落ち着くだろうから。
そう自分に言い聞かせていたけれど、やっぱり無理だ、と観念しました。
だって。
金曜の夜が来るたびに心が寒くて眠れないし。
譲られた時計をつける頻度が増えたし。
スマホで家族写真を眺めてしまうし。
やっぱり悲しくて仕方ないんじゃん。
でも、私は誰かの前で悲しむことができません。気にしいの見栄っ張りだから。
家族や友人や同僚に気持ちをぶつけるなんてとてもじゃない。葬式で泣きわめく親戚を見てもなんだか醒めた気持ちになったし(申し訳ないけれど)。明日の仕事を考えているとき、悲しみが入り込む隙間など持てそうにありませんでした。
だけどこの感情を放っておいたら、きっと心が擦り切れてしまう。
じゃあ、ひとりで悲しむことにしよう。
そんなわけで休暇をとり、友達も親戚もいない青森で「忌引き」を過ごすことにしました。
メールやSlackの通知はオフにしています(理解ある職場でありがたい限りです)。平日、しかも山中なので人の出入りがほとんどない温泉宿には、たくさんの余白があります。
父のいなくなった冬に閉じこもって。泣きたい時に泣いて、泣き疲れたら温泉に入って過ごしています。あとは、こうやってnoteを書き溜めたり、気の向くままに読書や映画鑑賞をしています。誰かや何かに気をつかうことなく感情に浸るなんて、何年ぶりのことでしょう。
平静でなくていい。順序立てていなくていい。
手に入れた孤独は、とても自由で悲しみがいがあります。
どっぷりと悲しんできます。春を待つ青森からお送りしました。
青森への移動中に読みました。その場にただ「いる」ことが、何かを「する」ことにいかに毀損されやすいか。最近の私は「する」に偏っていたなあ、と自分を省みました。忌引きの間は、「いる」のトレーニングです。
今はこれを読んでます。英文は頭が疲れちゃうので、湯上がりの元気なうちに。
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