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“私”とは何か 〜自己意識について〜

 “私”とは不思議な存在である。“自分”にしかその気配が感じられず、常に“自分”のそばにいて、”自分”と声を発さず頭の中で語り合える。

 “私”は、“自分”と共に人生を歩み、その中で喜びや悲しみを共有する。自分自身でありながら、まるで無二の親友のような、特別な存在でもある。

 そして、“私”は、思考し、判断を下し、行動する主体であり、自分が歩んできた過去の歴史を織りなす主人公でもある。まさしく、自己の存在の核をなすものと言える。

 この“私”と“は何か、また、その実在の理由、そして、“私”と“自分”との関係について、深く掘り下げてみたいと思う。

自己意識はいつ生まれたか

 “私”はいつから存在したのだろう。肉体を持って生まれた時ではない。外界ではなく自分自身に意識を向けるようになった時のこと。言い換えるなら、“自己意識”を持ったのはいつなのかということである。

 意識自体は、出生直後からあった。未発達ながら視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を感じ、簡単な思考や感情もあった。けれども、意識は外界に向くだけで、内なる“私”に気づくことはなかった。

 ミラーテストの結果から、1歳半から2歳頃になると鏡に映る自分自身を認識できるようになるという。これは、他者から自己の外面がどう見えるかに注意を向けるもので、“公的自己意識”と言われる。

 自分が周囲からどう見られているかが気になって人前で緊張したり、恥ずかしくて赤面したり、また、周囲に同調したり、時に劣等感に苛まれるのは、この意識の性である。

 その後、成長とともに、自己の内面である心(思考・感情・意志)に注意が向くようになっていく。いわゆる“私的自己意識”の発達である。

 この意識のおかげで、自分の感覚や感情、思考を客観的に理解できるようになり、思春期頃から「自分は一体何者なのか」という問いを追って、アイデンティティを形成していくことになる。

 こうした一般的な発達のレールに乗って、自分はいつしか“私”という存在に気づき、以来ずっと“私”を意識し続け、 “私”と共に人生を歩んできた。

 そして、『この“私”こそが、“自分”の全てである』という確固たる信念が出来上がっていったのである。

自己意識を持つ動物

 この“私”という自己意識は、ヒトだけが感じているものなのだろうか。ミラーテスト(鏡像自己認知テスト)では、ヒトを含めた類人猿、イルカ、ゾウ、カササギなどが自己認識をしていると言われる。

 ただ、ミラーテストだけでいうなら、ホンソメワケベラという魚も合格するらしく、このテスト結果が自己意識の有無を示しているとは到底言い難い。

 この魚は、鏡の中の像から何かを学習しただけのことなのかもしれない。たとえ、鏡に映った姿で“自己認識”をしたとしても、それはヒトの“自己意識”とは程遠いものだと思われる。

 ヒトの自己意識は、単なる自己認識だけにとどまらない。外面的自己だけでなく、内面的思考、感情、意志、記憶等にアクセスすることができるものなのである。

 そのためには、進化の観点からも、やはり発達した神経組織と高度な認知能力が必要と思われる。そう考えると、ヒトと同様な自己意識を持つ可能性があるのは、一部の類人猿に限定されるであろう。

自己意識の定義

 “自己意識”という言葉の使い方には、学術分野による定義の違いや意識のクオリアの捉え方などにおいて、多少混乱があるように感じる。

 まず、“意識”という言葉については、日本語的には「注意」「心」、医学的には「意識レベル」を指して使われるが、心理学・哲学的には、「意識内容」「クオリア」という意味で使われる。

 次に、“自己意識”を紐解くと、「外界ではなく自分自身に向けられる意識のこと」とある。この場合の“意識”は「注意」という意味合いに捉えられるが、ここでは「クオリア」として考えたい。

 ただ、その場合にも、意識対象である、その時の思考、感情、意志などのクオリアを指すのか、意識主体である“私”というクオリアを指すのかという問題が起こる。

 クオリアというもの自体、実体が不明なものだが、ヒトが自分の心にアクセスしている意識主体である“私”というものを常に感じているのは紛れもない事実である。

 ただ、思考・感情・記憶等の非感覚的経験や自分という感覚が、クオリアのいう「質感」を伴うものなのかどうかについては、研究者の意見が分かれる所である。

 ここでは、広義でのクオリアとして、自己意識というものを、『自分の心(思考・感情・意志)を感じている“私”という“クオリア”』と定義し、話を進めていきたい。

自己意識は実在するか

 『“私”とは何か』を考えるにあたり、まずは、 “私”は実在するのか、について考えたい。もちろん、私の体は実在する。しかし、自己意識としての“私”は、いったい、どこにどのように存在しているのだろうか。

 “色”や“音”のクオリアなどと同様に、自己意識である“私”のクオリアもまた、おそらく、神経細胞の活動によって生み出されるものと推察される。

 しかしながら、脳の中にその実体はない。あるのは、神経細胞と伝達される電気信号だけである。かつて、脳の中に“私”の実体(ホムンクルス )を探し求めた宗教家、医者、哲学者は多くいたが、誰も見つけられはしなかった。

 “私”というクオリアは実在している。しかし、感覚などの他のクオリアと同様に、神経細胞に活動電位が起こることによって立ち現れる、脳内には実体のない現象であると考えられる。

自己意識は脳内活動の中枢か

 では次に、“私”という自己意識が脳内で中枢的役割を果たしているのかを考えてみたい。自己意識は、ヒトの心の機能である思考、感情、意志にどのような影響を及ぼすのであろうか。

 以前の投稿でリベットの実験結果を基に述べたように、自己意識が行動を決定しているのではない。行動を起こす準備電位が、意志が決定するよりも約0.3秒早く、脳内に発生しているからだ。

 また、脳内活動から意識が生まれるには、約0.5秒間の連続した神経細胞の発火が必要である(意識は常に0.5秒過去を経験している)という実験結果を踏まえると、自己意識が思考、感情、意志の起点であるとは考え難い。

 先に述べたように、脳内に自己意識に当たるニューラルネットワークは見つかってはいない。fMRI(機能的核磁気共鳴撮像法)などを用いても思考、感情、意志などを統括している部位は検出されていない。

 結論を言えば、自己意識は司令塔ではないということである。さらに言えば、“私”というクオリアは、他のクオリアと同様に、脳が生み出した幻想にすぎないと考えられる。

自己意識を持たない動物

 それではなぜ、自己意識というものが存在しているのか、それを考えるにあたり、自己意識を持たない動物について少し考えてみたい。

 例えば、昆虫やカエルを見てみよう。これらの動物は、脳の構造から考えても、おそらく意識を持たないであろうし、自己意識などは確実に持たない動物だと思われる。

 カマキリには、意識に上る思考や感情、意志はなく、反射的に、餌を捕まえたり天敵から逃れたり、交配相手を見つけて交尾したりする。

 カエルも、視界に動くものがあれば反射的に、口を開き舌を伸ばして摂食する。全ての行動が無意識に、「反射」とそれが組み合わさった「本能」によって成し遂げられる。

 このように、意識を持たない動物も、摂食、逃避、闘争、生殖など生物として必要な行動は全て実行しているのである。この無意識の活動に生物として欠けた点は何一つない。

 つまり、自己意識を含め意識は、生物にとって絶対に必要不可欠なものではなく、ヒトが進化の過程で獲得してきた機能の一つであると考えるのが妥当である。

自己意識と進化

 では、自己意識の役割は何なのであろう。それを考えるには、生物の「進化」というものに焦点を当てなければならない。

 進化は、遺伝子変異によって生じた形質変化の内、生存と繁殖において、その生息環境により適応したものが、長い年月をかけて自然選択されることによって起こる。

 目の進化をみた場合、最初の光受容細胞が露出する状態から、光受容細胞がくぼみに隠れる状態、くぼみの入り口がピンホールになる状態、眼球が閉じて液体で満たされる状態、レンズが追加された状態へと変化していく。

 その他、魚類のヒレが四肢に進化したのはよく知られているが、ヒトの中耳にある耳小骨の内2つは、爬虫類の下顎の骨が進化したものらしい。

 ようするに、進化は、現状の土台を基に改修工事の形で行われるのである。脳の進化も同様である。特に大脳は、古皮質に新皮質が上乗せされ、さらに、新皮質に連合野が追加された。

 意識は脳の進化によって生まれ、自己意識はその最終段階に現れたと考えた場合、その機能は既存の脳組織に付け足されたアップグレードだと考えられる。

 このことからも、自己意識の誕生が、すでにある多数の無意識な神経活動を一つに統合するような、脳神経システムの抜本的改変を意味しているとは考え難い

自己意識の役割

 なぜ自己意識が生まれたのか。その答えは憶測の域を出ない。まずはここで、自分が共鳴する部分の多い前野隆司氏の「意識受動仮説」を紹介させていただく。

 これは、『ヒトの脳は、自律分散的・自己組織的な「無意識」の集まりで、「意識」は、受動的・随伴的でありエピソード記憶を行うための幻想である』という仮説である。

 この仮説では、「自己意識」とは限定せず、「意識」という大きな括りとして、その存在意義を「エピソード記憶を行うため」と論じている。

 自分の考えとして結論を言うなら、“私”という意識は、脳が生み出した幻想であり、進化の上で獲得した生存・繁殖に有利となる一機能に過ぎない

 その背後には、無意識の並列した多数のニューラルネットワークのモジュールが存在している。そして、それらが脳活動を行い、生命を維持し、思考・判断して、行動を決定している

 そして、もとより、身体を構成する37兆個もの細胞が生命活動を行い、役割を持って分化し協働して自分を作り上げていることを忘れてはならない。

 それらのトータルが“自分”なのであって、全てのヒトが抱いてあるであろう『この“私”こそが、自分の全てである』という信念は、残念ながら真実ではない。

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