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終戦記念日にはいつも母がしてくれた話を思い出す

本日8月15日は終戦記念日。

終戦記念日にはいつも、小学生の頃母に連れられて外出した際、駅前で見かけた傷痍軍人の方の姿とともに、お盆に母がしてくれた話を思い出す。

小学生だった私には衝撃的な話だったので強く記憶に刻まれたのだろう。

80代半ばを過ぎた母は神戸生まれの神戸育ち、小学生の時に神戸大空襲に遭遇している。

後々集団疎開で実家を離れることになるのだが、それまでに体験したことを話してくれた。

空襲は昼夜関係なくあり、「ウーウー」と空襲警報のサイレンが町中に鳴り響き、その度に防空壕へ避難したそうだ。

ある日、空襲警報が鳴ったので、母はいつものように防空壕へ避難しようと外へ出ると、低空飛行している戦闘機が頭上に見えたため、怖くて怖くて一心不乱に防空壕へ駆け込んだ。

母が防空壕へ駆け込んだ直後、赤ちゃんをおんぶした近所の女性が飛び込んで来たところ、すぐに防空壕にいた人達が「赤ちゃんが、赤ちゃんが」と声をかけた。

女性がおんぶしていた赤ちゃんを見るとぐったりしており、背中から降ろすと死んでいた。

戦闘機は射撃しながら飛行していたらしく、放たれた弾がおんぶしていた赤ちゃんに当たり貫通せずに女性は助かったようだ。

別の日、母には結婚して実家を出ていた一回り歳上の姉(私の伯母)がいたが、伯母が居住していた地域が燃えていたため、母は祖母に連れられて伯母を迎えに家を出た。

道に横たわったたくさんの死体をよけて歩いていると、伯母も実家に帰ろうとしており、偶然道中で出くわしたらしい。

3人で家に向かって帰ろうとした時、空襲警報が鳴ったので3人で側溝の中に体をすくめて隠れたという。

状況が落ち着くまで、ひたすら3人で震えながら身を寄せ合って。

母には兄もおり、その兄は戦死している。

広島の呉から船で出兵する時に、家族で見送りに行き、小学校入学前の母を軽々と抱っこしてくれたのが兄との最後の思い出となったらしい。

遺骨は帰ってきていない。

剣道関係で懇意にしてくださっている方で、戦没者の追悼にご尽力されている方のご協力を得て、伯父が海軍整備兵長として出兵し、フィリピンのルソン島で戦死したことが判明しました。

余談だが、実家のすぐ側にある母方の祖母の家に「遺族の家」と書かれたプレートが貼られており、小学生の時に友達から「お前のおばあちゃん家は『きぞく』の家なん」と聞かれ「そんなわけないやろ、お母さんに聞いてみるわ」と答え、「いぞく」と読み戦没者の遺された家族を指し、その家庭に配布されたプレートだと母から教えてもらったことを思い出す。

また、さなえちゃんという母の小学校の同級生は焼夷弾で右腕を吹き飛ばされたそうだ。

数年前のある朝、私は神戸新聞を読んでいて気が付き「神戸大空襲関連記事でさなえさんという人が新聞に出てるけど、ひょっとしてお母さんの同級生ちゃう」と母に声をかけた。

母は「間違いない、さなえちゃんや。元気にしてるかな」と新聞をつぶさに見ていた。

後に分かったことだが、さなえさんは80歳でお亡くなりになるまで、神戸大空襲の語り部としての活動を続けられ、さなえさんの体験は「神戸大空襲を記録する会」によって「さなえさんのて」というタイトルで絵本化されている。

母と共に心からご冥福をお祈り申し上げます。

その絵本ではないが、私は同会の存在を知り、自分が生まれ育った町の歴史の一端を知るために神戸新聞総合出版センター発行、同会編の「神戸大空襲」という本を購入した。

自宅付近の今もよく知る、よく訪れる場所が戦火に巻き込まれていた様子が記されており、何とも言えない気持ちになる。

歴史を学ぶ意義の一つとして過去を知り発展につなげるということが考えられるが、二度と同じ過ちを繰り返さないということもその一つだと思う。

戦争を実体験した世代の生の話を聞ける世代は私達が最後かもしれない。

聞いた話を後生に伝えていくことも私達世代の重要な使命となるだろう。

現在も世界のどこかで内紛や国家間の紛争が起きている。 

その度に普通に生活しているだけの罪無き人の命がたくさん奪われるのだ。

そんなことがあって良いのか。

良いはずがない。

戦争で尊い命を落とされた方々のご冥福をお祈り申し上げるとともに、限りなく不可能に近いことだとしても、この世から戦争が無くなることを祈りに近い願いとして持ち続けていきたい。

黙祷。

最後までお読みいただき有難うございます。

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