潮待珈琲店

「あなた、後どのくらいで着くの?」
「そうだな 、思ったほど道が混んでないみたいだから、30分ってとこかな」
「お父さん、アイス買って」
「はいはい、お昼ごはんの後でね」
「今日は暑くなりそうね。もう一本飲み物を買 ってくれば、よかったかしら」
「園内の自販機か売店で、買えるだろう」
「そうね。…あら、向かいから来る車、何かおかしいわね。蛇行してない?」
「? …やばい!来るぞ!」
「キャーッッ!」
「お父さん! お父さん…」
「 」


毎年、この時期になると必ずニュースを賑わすのが、帰省や初詣での交通死亡事故の話題で、今朝も新聞やテレビで盛んに取りあげられていた。
子どもの死亡事故の記事が載った新聞を元通りにたたむと、飲み干してしまったカップを持ち上げて、おかわりの合図をマスターに送った。
この手のやりきれない記事を読んだ後は、もう一杯、淹れたての熱いコーヒーにしばらく逃避したくなる。
窓の外に目をやると、空は一面の厚ぼったい雲に覆われ、時折白いものがちらつきはじめていた。

ランチタイムを終えた店内は、めずらしく閑散としていて、いつもの賑わいがウソのようだった。
まだ松が取れたばかりで、冬期休業しているところもけっこうあるから、そのせいだろうか。
マスターが時計に目をやると、テイクアウト用の容器を取り出して、準備をはじめた。
自分も付箋が貼ってある壁を確認しながら、財布に手を伸ばしかけたが、さいわい『保留コーヒー』はまだ一つ残っていた。

『保留コーヒー』とは、元々イタリアのナポリで広く行われていた伝統の習慣だそうで、店でコーヒーを飲んだ人が支払いをするとき、一杯分多く払って、それをさまざまな事情で代金が払えない、見知らぬ誰かのコーヒー代に充てるシステム※のことらしい。
この店では、『保留コーヒー』の数を、付箋で壁に貼り出していて、いつしか支払いをした客がその付箋に、メッセージを書くようになった。
励ましやエールの文言が大半だが、変わり種もあって、『還付金』や『へそくり』等の金の出どころが書かれたものや、『結婚記念日』や『再就職祝』の日付のタイプ等があり、中でも一番の傑作だと思ったのが、『今日は勝った!明日はわからん!』と書かれた勝負師らしい一文で、未だにこれを超える作品には、お目にかかっていない。

このところ昼下がりのこの時間に来店する、ひとりの客がいた。服装からするとどこかの建築現場で働いているらしく、白髪混じりの髪に腫れぼったい目、不摂生な生活が垣間見える体つきをしていて、交通事故で痛めたという片足を引きずりながら、いつもコンビニの袋を携えて来ては、遠慮がちに『保留コーヒー』を頼むのだった。
今日もひとりでやって来た彼は、いつもの通り『保留コーヒー』を注文して、その出来上がりを待っていた。
マスターが容器の蓋に付箋を張りつけてコーヒーを手渡すと、軽く会釈をして店を後にするのだが、この日は違った。

受け取ったコーヒーの蓋に貼られた付箋を目にした途端、彼の足が止まった。
一瞬大きく見開いた目は真っ赤に充血し、呼吸が乱れて肩が上下に震えはじめた。
込み上げる何かを必死にこらえようとしていたが、やがて熱いしずくが頬をつたい落ちた。
その様子に席を外そうとトイレに立ちながら、彼の肩越しに覗きこんだ蓋の付箋には、たどたどしい子どもの字で『おとしだま』と書いてあった。

トイレから戻ると、彼の姿はもうなかった。
会計を済まそうとレジに行くと、彼が来る直前財布に手を伸ばしかけたのを、見ていたマスターから『保留コーヒー』分が含まれた代金を、ちゃっかり提示された。
苦笑いしながら、渡された付箋にはこう書いておいた。『且座喫茶(しゃざきっさ)』と。

※『Think Dally 』高木彩香様の記事を参考にしました。
http://www.thinktheearth.net/jp/sp/thinkdaily/news/imagination/1098suspended-coffee.html





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