『82年生まれ、キム・ジヨン』私はジヨンで、そして……
ながらく読みたいと思っていた、『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ、斎藤真理子訳)を読んだ。ネタバレ注意です。
2015年、33歳の韓国人女性、キム・ジヨンにある異変が起きる。全く別の人物のように振る舞うようになったのだ。そして、彼女が1982年に生まれてから、これまでの出来事が克明に描かれる。当たり前のように存在する男女の格差、女性に対するひどい扱い、出産と仕事の問題などに、キム・ジヨン、そしてその周囲の女性たちは遭遇していく。
私は彼女より一回り年下で、日本生まれ日本育ちである。なのに、彼女の人生を辿るうち、「私と同じだ」と思いはじめた。男子からの嫌がらせ、給食を食べきれず叱られたこと、中高では成績上位だったが大学ではそうでなかったこと――これらは韓国女性にとって「あるある」なのだと思うが、私にとってもそうだった。
その一方、正直彼女が羨ましい、と思う点がないわけでもない。友人に恵まれ、奨学金を借りなくていい程度には実家が安定していて、インターンシップや勉強会をする「意識が高い」学生時代を送り、正当に評価はされないが仕事はやりがいをもっており、今は可愛い娘もいる。それはもちろん、当然のように女性が抑圧されている社会下のことではあるのだが……。
キム・ジヨンは私にとって「自分と似た人」であって、「憧れの人」でもある。大学時代からその片鱗が見えていた男性優位、女性を貶めるような言動の数々、セクハラ、無理解に、社会人となった彼女が打ちのめされてくのがあまりにも痛々しく感じた。特に印象に残ったのが、出産後のキム・ジヨンが手首を痛めて病院に行った際、老医師から「今は家事も機械でできるのに何が大変なのか」ということを言われるエピソード。そう言われた彼女は、医師だって今は電子カルテ、農業だってオフィスワークだって技術の発展により楽になるのは同じじゃないか、と考える。私は以前病院で働いていたので、電子カルテだって楽じゃないのよ(笑)、と思ったりするのだが、それはジヨンの言う通り、家事にも当てはまることなのだ。当たり前といえば当たり前なのだけれど、言われてみればおかしくないか、という数々のことを、この小説は浮き彫りにする。
キム・ジヨンの人生を、私は楽しく(あまり気分は良くないが)読んだ。だが、どこかに違和感を覚えつつ、であった。何かがおかしい、という予感。そして時代は2016年へと進む。この章の語り手はキム・ジヨンの主治医だ。やっぱり違和感がある。そして、最後の最後。私は震え上がった。それと同時に、全てが一点へ収束したような感覚を覚えた。なんて恐ろしい小説なんだろう、と思った。
私のこの作品に対する事前情報は、「フェミニズムに焦点を当てた韓国小説」という程度であった。俗物なので流行ったものは読んでおきたいと思っていたが、題材が重々しいだけに身構えてもいた。しかし、実際に読んでみるととても面白かった(まあ気分は良く(ry)。何度も読み返したいし、人に薦めたい作品のひとつとなった。
最後に、私の考えを一つ。キム・ジヨンをこの症状へ駆り立てたものは何だったのだろう。孤独かもしれないし、ある種の憎悪かもしれない。けれど私には、それが「諦め」に思えるのだ。一人の女性として、母親として、会社員として、キム・ジヨンとして、彼女は歩こうとしたし、それができるだけの能力があったはずだ。なのに、彼女の進むどのルートも、誰かが(何かが)塞いでいた。彼女の人生は文字通りの行き詰まりのようで、キム・ジヨンとして、どこかへ行くことを諦めてしまったのではないかと思う。彼女がたった一人のキム・ジヨンに戻れるのは、その障害物が取り除かれた時だ。
厄介なのは、それを置いた人が善意だったり、無意識だったりして、それが彼女の人生に影響を与えている事実を分かっていないかもしれないという点だ。何も韓国男性だけがそうしているのではない。私の隣にキム・ジヨンがいたとして、私も同じことをしてしまうかもしれない。そこまで考えて、最後のページに感じた恐ろしさを、私は反芻した。ああ、なんて恐ろしい小説なんだろう。
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