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『ある行旅死亡人の物語』人生という道を描くこと

 『ある行旅死亡人の物語』(武田惇志、伊藤亜衣)を読んだ。兵庫県尼崎市で孤独死していたある女性の身元を、行旅死亡人の記事で彼女のことを知った二名の記者が探していくというノンフィクションである。
 亡くなった女性、「田中千津子さん」は、身分を証明するものをほとんど持たず、人との関わりも、おそらく意図的に絶っていた。そのため、著者の武田氏・伊藤氏は、彼女の持っていた写真や、旧姓と思われる印鑑をたよりに、彼女のルーツを探っていくことになる。

『火車』と『ある行旅死亡人の物語』

 私の好きな小説に、『火車』(宮部みゆき)がある。休職中の刑事である主人公の本間が、「関根彰子」として生活していた女性の正体を探るというもので、私が本書の前身となったWEB記事を読んだ際に、真っ先に思い出された作品だ。実際、本書の感想を検索してみると、「リアル『火車』だ」のように、この作品へ言及しているものがいくつか見られた。
 『火車』はフィクションであるが、調査の先で出会った人々がいきいきと描写され、ただ少し話を聞いただけの人であっても、その生活や性格が見えてくる。まるですぐ隣や向かいの家に彼らが住んでいるかのように感じられる。「千津子さん」と縁ある人々を訪ね歩き、その記憶を聞き取る本書の著者の姿は本間に重なる。さらに、本書であれば原爆・グリコ森永事件・よど号ハイジャック事件など、『火車』であればクレジットカード問題や意外なところでプロ野球南海ホークスの買収など、その人生のはしばしに歴史的な出来事が関わってくる点もよく似ている。(ちなみに、私が「行旅死亡人」という言葉を初めて知ったのもこの小説からである。)読み進めるうちに、私は自然に「千津子さん」に「彰子」を重ねていた。その素性を隠して生きながらも、大切な記憶を捨てきれないやさしさが共通している。

 『火車』では、最初に登場した「彰子」は実際は全くの別人であり、関根彰子という人物の戸籍を乗っ取って暮らしていたことが判明する。本物の彰子の友人である保は、彼女の卒業アルバムを保管してほしいと同級生に送付した偽の「彰子」について、次のように述べる。

身分を乗っ取って、そのくせ、こんなアルバムを、わざわざ地元の友達のところに送りつけたりして・・・・・・変ですよ。なんで捨てちまわなかったんだろ。その方がずっと簡単なのに。捨てちまえばいいのに。なんでそんなとこで、しいちゃんにすまながってるみたいな、そんなまっとうなことをしたんだろう

(宮部みゆき『火車』新潮文庫)

写真、そして印鑑

 『火車』の中で、偽の「彰子」を探す大きな手がかりになったものは彼女が持っていた「家の写真」だったが、本書で著者が「千津子さん」のルーツや人柄を読み解く上でつぶさに調査していたものは彼女の持つ数葉の写真と印鑑であった。現代では携帯電話やスマートフォンで手軽に写真が取れるが、データであれ、現物であれ、ながく手元に置いておく写真には、それなりの思い入れがあろう。私は『火車』が発表された二年後の1994年に生まれたが、幼少期にはまだカメラ付き携帯電話はなく、カメラを趣味にする家族もいなかったので、出かける際にはかならず「写ルンです」を持っていった記憶がある。当時はまず写真を撮るにしても、現代のように枚数を気にせず何枚もというわけには行かなかったのではないかと思うが、Wikipediaによると1993年には電源無しで撮影可能なデジタルカメラも発売されたということなので、このあたりの感覚はよくわからない。当時を覚えている方がいらしたら教えてください。(なお、「彰子」の持っていた写真は友人に借りたポラロイドカメラで撮影したという記述があり、千津子さんの写真はフィルムカメラである。)
 いずれにせよ、カメラで撮影し、それを長期間保管しておくには、その写真に対する愛情があればこそだろう。身分を隠した生活をしているならなおさらだ。彼女の手元には、自身が写っているものや、夫らしき男性、甥姪の写真、大事にしていたらしきぬいぐるみの写真が残されていた。もし彼女や夫が身分を明かせない生活をしていたなら、そのような写真を持っておくこと自体が危険に繋がりかねない。けれど、大切な存在を思い出すためのそれらを、彼女は捨てることができなかったのだろう。あまりにも不可解な状況からはじまる本書であるが、「千津子さん」の気持ちは、きっと今を生きる私達とそう違わないだろうと思うのだ。

 本書において、千津子さんの親類を見つけることができた理由は、遺品の中にあったごく珍しい「沖宗」姓の印鑑だった。田中姓で生きた後半生で、千津子さんが旧姓の印鑑を必要とした場面はなかったのではないか。実際、著者が調べるまで彼女が沖宗姓であったことを知り得る手がかりは、この印鑑しかなかったのだから。彼女には正式な婚姻歴がなく、戸籍上はずっと「沖宗千津子」さんだったので、もしものときのためにハンコを持っておいたのかもしれない(珍しい名前のため三文判も売っていないと、著者に協力した同姓の男性は証言している)。それに加え、写真と同じく、思い出としての役割を果たしていたようにも思う。特注するしかないこの印鑑を彼女は自分で買ったのか、それとも成人か何かの節目に家族から贈られたのだろうか。
 故郷を去り、過去を半ば捨て去ってなお、彼女はずっと「沖宗千津子」でありつづけたかったのかもしれない。ヘンゼルとグレーテルがお菓子の家までの道に小石を撒いたように、写真も印鑑も、彼女が彼女として進んでいくための、そして来た道をたどるための道標のようだ。彼女は故郷から遠く離れた地で亡くなってしまったが、その細く、しかし強い思いが、著者を、そして千津子さんの心を故郷に運んだように感じられた。

人生という道について

 『火車』では、すべての謎が解け、本間たちは偽「彰子」に会うことが叶った。それに対し、事実は小説よりも奇なりとはいえど、本書では、「千津子さん」に関していまだ多くの謎が残されている。序盤に著者の興味を引いた、金庫に残された現金の出処や、住民票消去に至った経緯、長らく家にいない(亡くなった?)夫らしき男性の身元などは、判明していない。いち読者としては気になるところではあるが、その全ては千津子さんしか知り得ないことだ。呑気に五体満足で暮している私には想像もつかないような、のっぴきならない事情があっただろうと思う。
 けれど、本書を読み終えたとき、私は千津子さんをーー読み始めたときは、奇妙な女性だとしか思わなかった彼女をーー身近に感じたのだ。家族仲良く暮らした幼少期があって、友人と楽しく過ごした学生時代があって、愛する人と生きた時間があって……最期は独りだったけれど、彼女のことを覚えている人がいた。
 人生は道に例えられるが、たった一人だけが歩く場所をふつう道とは呼ばない。家族が、友人が、恋人が、その他関わり合うすべての人が、少しずつ自分と同じ場所を歩いていたからこそ、そこが道になるのだ。人付き合いがあまり得意ではない私だが、もっときれいな「道」を描けたらいいなと思った。死後もそこがくっきりと白く見えるような、片隅にいくらか花が咲いているような、そんな道がいい。そして、私自身もだれかの道をつくれる人でありたい。
 千津子さんは暗い藪の中に、もしかしたら自らの意志で、突っ込んでいったかもしれない。けれど、武田氏・伊藤氏はその道を故郷へと繋げ、旅路を終わらせた。その丹念な調査に、尊敬の念がたえない。人生という道を旅するすべての人におすすめしたいルポルタージュである。

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