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私が見た南国の星 第3集「母性愛に生きて」⑰

 いよいよ第3集の最後になりました。野村さんの奮闘記は折り返します。まだまだ、続く長く苦しい戦いです。思わず「頑張れ!」と応援したくなります。

身体が悲鳴を上げる


 工商局の職員を見送るために、通路を歩いていた時だった。私は急に気分が悪くなって倒れてしまった。気がついた時には、町にある人民医院の集中治療室のベッドの上だった。あたりを見渡すと、保亭県の書記や県長たちの顔が私を眺めていた。彼等は、今回のことで私の身に何か起きて、事件が大きくなるのを心配していたのだろう。
 私は、自分の身体がどうしても動かず、言葉を掛けられても返事ができないないほど、神経が疲れてしまっていた。病院からの帰りは、阿浪が車へ私を抱えて乗せてくれたが、自分で身体の感覚さえもわからないほどで、まさに生ける屍と化していた。
 ホテルへ戻り暫く休養をしていたのだが、本社への報告もしなければならず寝てもいられなかった。馮さんに支えられながら事務所まで行ったが、声も出ない状態だったのでFAXで報告書を提出した。私は報告書を書きながら、自分が情けなくて涙が出てきてしまった。
 「どうして、こんなにも苦しい私を本社は理解してくれないのでしょう。私はこのホテルの社長ではないのだから、早く来て助けてください!」と、叫びたい気持ちを精一杯我慢していた。社長の言葉は私の心を優しく包むようで我慢できたが、河本氏から言われる事務的な言葉が本当に辛かった。我慢できたのは、やはり社長の寛大な心のおかげだと思っている。
「私はもう歩けません。だから私を背負って下山して下さい。お願いします」
 心の中で呟きながら、それでも日本人としての誇りと忍耐で、中国人に負けたくないと歯を食いしばった。

広州日本国総領事館


 数日後、私は阿浪と共に、「広州日本国総領事館」を訪ねた。総領事には前もってお話をしておいたので、時間を空けて頂けた。約2時間の会談となったが、総領事は真剣に私の話に耳を傾けてくださった。阿浪と馮さんは、外で待っていてくれていた。やはり、中国人が一緒だと都合が悪いこともあったようだ。領事館では、中国人も職員として雇用されているが、職員の管理では頭が痛い問題もあるようで、私の悩みも理解ができると同情をして下さった。そして、総領事は、
「話の内容については、だいたい理解ができました。でも、こんな問題が起きているというのに本社からは誰も来られないのは理解が出来ません。領事館から本社へご連絡をしましょうか。言葉もわからない貴女が、一人で苦しんでいらっしゃるのをご存知なのでしょうか」
と、おっしゃった。私は総領事が、自分の気持ちを理解して下さっただけで満足だった。総領事はまた、
「貴女が保亭県政府との間で苦しんでおられますので、私の方から保亭県政府にも事情を聞いてみますから待って下さい。今回の事件で相手から金銭の請求があっても、簡単に支払わないで下さい。本来、邦人の身に何か起きた場合に手助けをするのが領事館の仕事なのです。残念ながら、民間企業のトラブルは、領事館としても関与が出来ないこともあります。従って、出来るだけのことは致しますが、ご期待に添える結果が得られるかは不明ですので、どうかご理解下さい」
と、言われた。
 次の日、広州から戻った私は気持ちも少し落ち着き、今後の業務に専念しようと決意をした。数日後、工商局が彼等に対する報告と対処についての解答が欲しいと、二人の職員が尋ねて来た。
「相手は絶対に要求を取り下げないそうです。どうしますか」
また同じことだったが、私は気丈な態度で、
「何度も同じことばかりの報告ですが、彼等の気持ちが変わらないのですから我社も同じ答えしか言えません」
と答えた。これに対して、工商局の職員は無言だった。この問題については、長い時間が掛かりそうだと感じた。工商局の職員も、この事件について、解決の糸口を探し、早く和解をさせたかったようだが、難しいと判断したようで、この日から暫くの間は、工商局の職員も姿を見せなかった。

三年目の終わりに

 海南島へ来て三年、まさかこんな大きな問題が起きるとは夢にも思わなかった。ことわざでは「石の上にも三年」と言うが、この言葉通り、私は三年間頑張った。いつも自分に負けない強い意志と忍耐で、乗り越えてきたと思っていた。三年間の海南島生活が、こんな形で終わるのは残念でならない。50歳を迎えて、「さぁ、これからが人生の安定期だ」と考えた私の思いは、間違っていた。「これからが試練の人生なのかも知れない」そんな気がしてならなかった。女が一人で生きていく大変さを身にしみて感じていた。これも自分が選んだ人生だから、これからも強く生きなければならないと自分に言い聞かせた。この辛い三年間を思い出すたびに、七仙嶺で見た「満天の星」の輝きが懐かしくなる。
 この事件を解決することも出来ず、四年目を迎える日が訪れた時は本当に情けなく思った。
 まだまだ、これから続く海南島生活、いろいろなことがあった。今思えば、あの七仙嶺温泉地は、私の心に安らぎを与えてくれた「第二の故郷」だった。今年で22年を迎えた海南島生活、この月日は私の今後の人生をどのように変えたのだろう。それは誰にもわからないが、今までの生活を決して無駄にしたくはない。
「このまま日本へ戻って再出発をしよう」
と何度も考えたが、私は今もこうして海南島で生きている。時々、もう一人の私が
「貴女は、こんな所でまだ生活をしたいのですか。言葉も出来ないくせに、一人では生きては行けないのよ」
と心を迷わせる時がある。そんな時には、いつも私の心を支えてくれたホテル時代を思い出して、
「頑張ろう!」
と心の中で叫ぶ。そう思えるのは、この海南島の不思議な魅力に引き込まれているせいかもしれない。
 海南島生活三年目が終わった頃、本音を言えば私の心の中で芽生える愛はなかった。でも事実として、こんなにも多くの中国人の皆さんに助けられて、こうして生きてこられたことを日本の皆さんにも理解して頂きたい。
 私の海南島生活にもいつか必ず終わりが来ることだろう。しかし、決して後ろを振り向かない私の舞台を創り上げたい。カーテンコールはないけれど、その日が来るまで、この島に自分の足跡を残して生きて行きたいと願っている。 
 こうして私の海南島生活三年目は波乱万丈の日々が続き、未完成のまま幕を閉じた。




















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