見出し画像

交換ノート18: 読み手と書き手、フローとストック、完成したものと完成しつつあるものの交点

無茶振りをなげると無茶振りが返ってくるという法則を噛み締めています。

しばらくnoteに投稿されるコンテンツをウォッチしていると、イラストレーターやブロガーのように、もとから「与えるもの」をもっていた人々が積極的になにかを投下している様子が目立ちます。

そこでnoteはクリエイターだけのもので、「自分には関係がないんだ」と結論づけてしまうひともいますが、もう少し詳しく見てみると、noteならではのコンテンツの存在がみえてきて「おや」と気付かされることがあります。

漫画家だから漫画だけを投稿してかというとそうではなく、ファン向けのテキストを投稿している場合、下書きのような「舞台裏」を見せる場合、ちょっとした日常の話題を投じる場合もあります。

また、これまでブログを書くことはあっても「作品」を作ることがなかったひとが、エッセイ的なもの、詩のようなものといった新しいコンテンツの形式に挑戦している姿もみえます。

みんな、どこかで通常の自分の出している球種から変化を促されて、いつもと違う自分をここに投影しているのではないでしょうか。

これらのコンテンツはきっとnoteがなかったら(よいものも悪いものも)日の目を見ることがなかったわけですが、この「noteでなければ」というところに読み解く鍵があるようにみえます。

noteの交差点

"noteもなにかのマトリックスの真ん中のポジションを得た気がしています。で、それはなぜかというと、前述の二種類の違うクリエイティブを同時に刺激してくれるからなんです。 − 交換ノート17:noteは書き手と読み手のクリエイティブが交差する場所"

いしたにさんが指摘した、noteが刺激する二種類のクリエイティブというのは、値段の付けられたコンテンツへの読み手の「目利き力」と、その目利き力によって選ばれる側の書き手の「コンテンツ力」の交点と言ってもよいものです。

それ以外にも、noteがうまいことポジショニングをとることができた交点がいくつかあります。

たとえばフローとストックの関係。

noteはいまのところコンテンツがフローとして流れていきます。しかし購入された作品はそこからは切り離されてストック扱いとなります。みなさんも購入したnoteを、一度読んで放り出すということは少ないはず。つまり、noteは本来ストック的な意味合いの強かった作品とフローに乗せるとともに、フロー的に作品ポートフォリオを作ってストックにもちこむという側面ももっています。

そして、完成したものと完成しつつあるものの関係。

たとえばnoteに投稿されるは完成されたなにかである必要はなく、継続的に更新されるnoteが販売されていたり、連載的に投じられてあとで一冊の本としてまとめられる形式のnoteも存在します。完成された作品の習作も公開されています。

これらは「完成した作品」と「作られつつあるもの」との界面とかんがえる事もできますが、その両方がnoteには共在しているんですね。

読み手と書き手が同じ場所にいて、おなじストリームを構成しているというのも重要です。作品は読み手がいてはじめて完成するものですが、ここでは書き手も読み手であり、読み手は書き手を選ぶことで書き手を刺激します。まさにさきほどのいしたにさんの目利き力ですね。

こうした交点にnoteがあるということは、クリエイター的なひとも、いつもの安心領域から踏み出したなにかを提供することを求められていますし、もちろんこれから何かを投稿するというひとも、単にブログやツイッターの焼き直し、あるいはメルマガの再録という以上の行動を促されます。

この促された先がまだみえてこない。だからnoteはこれだけのひとをひきつけもし、投稿が途切れることなく流れ込んでいるのでしょう。

不確定なのです。なんだかムズムズするのです。きっとまだ正解がないのです。だから確信も自身もなく、とにかく押すわけです。「公開」のボタンを。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?