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ハードワークの功罪

仕事の時間が長いと、生活の時間は少なくなる。これは世の中にある数少ない真実で、捻じ曲げることは不可能だと思う。

だけど、その真実は、人によって解釈が変わる。

自己実現、ライフワーク、生き甲斐、投資的行動、修行。
働く時間を自分の中でどのように解釈するかは、十人十色だ。

私にとって働くは、「苦行」だ。
辛いし、疲れるし、嫌でしかない。
できれば、毎日本を読んだり、旅をしたり、歴史を学んだり、音楽を聴いたりして、過ごしたい。


ここからは会社の悪口が入る。

世の中にはハードワークが好きな人種がいる。私の会社にもいる。

先日、ハードワーカー達と大喧嘩した。やつらは、土日を含めたプロジェクトの工程を組んだ。結果を優先させたいリーダーは、時代にそぐわないことを認めつつ、その工程を了承した。
私は、それに大反対した。

理由は二つ。

一つは、上述の通り、余暇の時間が奪われるからだ。

二つ目は、一度会社がそれを許すと、組織としてのレベルが低くなるからだ。長時間労働という個人の努力が、人事評価の対象になってしまう恐れがあるからだ。
それはマネジメントの欠如であり、そのミスを組織として隠蔽することは、内部統制上のリスクにつながる。

結局、私の大激怒で、多少なりとも一石を投じることはできた。
工程も無理のないスケジュールになった。
納期交渉成功だ。
怒るほど、私は休みを奪われるのが大嫌いだ。


だが、しこりは残った。
無論、特定のメンバーとの仲は険悪になった。
ハードワーカー達は仕事が大好きだ。これはもう、しょうがないのだろう。

もしかすると、多様性として受け入れるべき価値観なのだろうか。

もしかすると私の行いは、世論を背にした軽薄な断罪だったかもしれない。ジャンヌダルクを処刑した魔女狩りの異端審問と一緒で、民衆の総意を悪意的に利用した愚かな行為だったのかもしれない。だとしたら、私は歴史を振り返り、反省すべきかもしれない。

仕事の好きな人たちは、一定多数存在する。
彼らは、仕事で成果を上げることが大好きだ。仕事に自身の成長を見出し、より高次元の人格になることが、好きなのだろう。
そんな彼らを、私はどのように理解すれば良いのだろうか。

仕事が好きなことは、良いことだと思う。理解はできないけど、私が読書が好きなように、彼らは仕事が好きなのだろう。

大抵、ハードワーカーは出世している。そこが、価値観の正当性を増長させる由縁だ。となると、ハードワークを押し付ける人は、個人の趣味を人に無遠慮に押し付ける人と一緒なのでは?

その発想でいくと、個人と組織の価値観のすり合わせが必要だ。
働くことが好きなのはわかった。だが会社としては、労働安全衛生の観点から、困る。
必要なのは、ハードワーカー達との対話だ。

「どうして、働くことが好きなのですか?」
まずは、彼らを対話を通じて理解しなければ。

働くって、本当にめんどくさい。
多様性ってめんどくさい。
だが、これが現実だし、向き合わなければ、余暇が奪われる。

やはり、仕事は苦行そのものだ。

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