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31歳になった私は、悪魔に魂を売ったことになるのか

「就職したい会社なんてないよ」

春になると毎年、就職活動をしていた頃の心の声を思い出す。(この回想は、もはや恒例行事になったのではないか?)

大きな落胆を、さらに言うなれば、絶望を感じていたのが大学1年生の冬あたりだっただろうか。人間の暮らしのあり方についてさまざまな問いが湧き始めたのがこの時期だった。

端的に表現すると、たくさん買うこと、たくさん消費することを推奨し続ける世界に、違和感を感じ始めた。

当時暮らしていた松本市には、色とりどりの魅力があった。美しい手工藝の文化が残っており、まちの商いからは生き方を提示する姿勢を感じ取り、また、雄大な自然の迫力に圧倒されていた。雪化粧をした山々を背景にした松本城は、いつ見てもため息が出る。あの景色を切り取って家に飾りたいと何度思っただろう。

大学1年の冬から、ついに私は我慢(?)ができなくなり、松本市内のカフェ・喫茶店巡りを趣味にする。時間と、土地と、文化と、そこに居るひとびとによってつくられた場に宿る何かを感じ取ろうと、はしごをしてはコーヒーを1日に何杯も飲んだ。お腹がたぷたぷでも気にせず、あちらにもこちらにも自転車を漕ぎ、次の目的地でまたコーヒーをすするのだ。(それなりに散財も伴ったが、たのしかったのは間違いない)


「就職したいなんて思えないよ。だってはたらき始めたら、自分が望まないお金の流れとか事業のやり方に、加担することになるではないか。」

「人間は、いとも簡単に、よからぬことをしてしまう。そんなことが、どうして起こってしまうのだろうか?」
これが私を動かす問いの中心軸をしめていた。目の前にある道具が置かれた時、私たちがそれを正しく使えないのはなぜか。
道具とは、お金や、自分が持つ権力(正確には、権力に限らない)といった類のもの。それらは何かしらの目的に向かって使うものだが、道具を使うことが目的化してしまうのはなぜか。

「自分はああはならない。(なりたくない)」

現在まで、私のしてきた選択の多くには、「〇〇のようにはならないために」の反面教師に対するエネルギーが強く働いていた。
言い換えるならば、「自分が潔白でいるためには」、どんな生き方の選択肢があるのだろうかと考えることに時間を費やしてきたとも捉えられるか。


さて、私が、実際に社会人と呼ばれるはたらく日常に身を浸らせてみて10年ほど経とうとしている。

さて、私は、悪魔に魂を売ったことになるのだろうか。
半分Yes、半分Noではないかというのが現時点での回答だ。

今私は改めて下記の指針を持って次の10年を生きようとしている。

「入り口を考えるのも大事だが、出口を考える人間にもなろう」

私は幸いなことに、これまでの仕事環境の中で、とても重要な経験をしてきた。これは、「大きな案件に携わらせてもらった」の意味とはちょっと違う。「自分には力がある」と感じられる瞬間によって身震いするような経験を重ねることができたという意味だ。

一人の人間が非力であることを突きつけられるような出来事が毎日あちこちで起きている。(この際たる例が戦争だろうが、それ以外にも日常場面でも非力を感じることはある。令和5年の確定申告準備をした時間とか。)

一方、私は仕事で出会うお客さん・仲間・さまざまな組織との関わりの中で「人は変われる。組織は変われる。それから、私には、ひとと協働する力があるのだ。」と感じる経験をした。特に前職での時間には、この点で深く感謝している。それから、現職でもそういう瞬間に遭遇する機会がある。

これはとても重要なことだ。
「自分には力がある」事実に自覚的であり、かつ、「その力をどう使うか」に対しても自覚的な自分が育ってきたと考えられるためだ。


なお、ここで表現している「協働する力」とは、元来生まれ持った優れた能力といったニュアンスでの力ではない。"自ら意思を持って選択や行動をし、時に言葉などの道具も用いながら自分以外の主体に働きかけることで、その対象になんらかの影響を与え得ることを知っている"という意味だ。

ただし、この協働する力を適度に扱えるようになるまでには、いくばくかの学びと訓練が必要でもあった。たとえば、力を嫌悪するだけでなく、自分が力を持つ立場になってみる。また、その力をどのように使うかを学び、実際に自分も力を使ってみるような経験を積んだ。そして何よりも、人間理解を深める学びは、これからますます進めていくことになるだろう。

「すでに出来上がった構造の中で周り続けるエンジンを止めたり改良するのは至難の業なかもしれない。」

事業づくり、経営とはどういうことかに触れる現場に入るほどに、こう思うようになった。今すでに、儲けている事業は、それはそれで素晴らしい。儲けるという営みも、とても尊いものなのだ。

ただし、その儲け方の選択が問題になる。正当な方法で儲けているのが理想だが、自分には見えない過程においていかがわしい取引がされていたといった状況は、いとも簡単に起こる。また、自分がいかがわしいことをしない保証もないではないか。

つまり、自分が完全に潔白でいられないような事態は、割と高い確率で起こるのだろう。それが人間のつくった社会であり、そういう事象を自ら起こしてしまうような特性を人間は持っていると認めざるを得ないのだろう、という解を出すことにしたのが現在の私だ。

でも。ここで私の心の火が消えてしまったのかというとそうではない。(消えかけたことは何度もある)

「入り口を考えるのも大事だが、出口を考える人間にもなろう」
とは、つまり、自分が得たあらゆる形態の資源を、どう使うか決める力がまだ自分に残っていると自覚的に生きるということだ。

資源と言えば、お金がわかりやすい例だろうが、決してお金に限った話ではない。誰かとの交友関係、自分が得た情報、知識、技術など無形・有形問わず私たちはさまざまな資源を受け取っては流してという流れの中に生きている。その、流れの作り方に、意思を持ち続けるのが「出口を考える」だ。

「私には力がある」

そんなわけで、私はおそらく、悪魔に魂を売った。
けど、売り切ってはいないのではないかと思う。


食わず嫌いをせず、
儲けるとは何か
事業とは何か
経営とは何か
会社とは何か
社会とは何か
地球とは何か
引き続き、これらの問いの答えを見つける旅を続けていこう。

そして、「あなたには力がある」という言葉も、新社会人の皆さんに届けたい。

終わりに
このエッセイの着想や日々の私の思考の骨組みとなった参考情報を下記に残します。これらは師であり、かつ友のような存在としてあなたを勇気づけてくれる言葉になるかも知れません。勝手ながらこのエッセイを読んでくださったあなたにもおすそ分けしたく思いました。




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