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かけない理由

12月に入ってブログ3000文字の手がピタリと止まった。書けなくなったのだ。作家さんとかがよくいう「スランプ」なのか?と思ったけど、そもそもそんな大それた領域に達しているはずもなく、「書きたいことが思い浮かばない」という本当に初歩的な悩みといった感じなのだ。

これらの原因を一般的な方法論として考えると「インプット量の少なさ」であり、「経験値の少なさ」に繋がっているのだという人は多い。つまり、「何がしたいかわからないんです」と言った、経験の少ない学生などがよく言うセリフなのです。若い子が言うのならまだ可愛げもあるし、聞いた相手も何か手伝ってあげたくなるのかもしれないが、「今更何を言っているのだ!」と、一蹴されるに違いない。

また、「最近色々と忙しかったのでは?」と自分でも思ったりしたが、インプットも忙しさも数ヶ月前に頑張って書いていた頃と比べると、今の方がインプットは多いし、忙しさは逆に落ち着いており、日々は緩やかになっているのだ。

飽きた?それとも新しい価値観に切り替わった?


つまり・・飽きたのか?ということなのかな?と考えてみた。人は飽きる生き物なのだ。飽きるというのと新しい価値観に切り替わるというのは似て非なるものだと思う。「飽きること」は子どもが新しいおもちゃを欲しがるようなもので、目新しいおもちゃが登場することで一時的には、解消することができる。これは人の欲望であり、欲望というのは厄介なもので、新しいおもちゃを次々と与えられると、どんどんエスカレートしてしまい。飽きる速度も早くなる。そう言う意味では物欲や金銭欲というのはだんだん麻痺してくるのだそう。物やお金では人は幸せになれないと言うのは、世の中の数々のドラマや映画でも紹介されている。

めんどくさいと思ったのか?

最近ギフテッドについて色々と興味があり、ネットや本で調べ、情報を集めているのだけど、発達障害の事例をみていくうちに過去(発達障害という言葉すらなかった時代)に私自身は子育てをしていたし、自分自身が子どもの頃には発達障害はただの「わがままな子どもだからもっと厳しく躾ける必要がある」などと言われていて、実際に今の時代は完全に虐待と呼ばれるような行為が親から子どもに「躾」という名の下で行われていたりしたのだ。学校で先生に暴力を振るわれても、それは教育の一環と言われたし、親は子どものためと思って躾という名の暴力も暗黙の了解の中で日常茶飯事だったのだ。

そんな理不尽な時代を生きた、「破天荒な世の中の偉人たち」も振り返ると発達障害だった人が多い。日本で言うと、本田宗一郎などは典型的な発達障害の症状である「読み書き」が大嫌いだったそうで、学校には行きたがらなかったのだそう。彼は子ども時代に「書取りを俺にさせるな!」と拒み続けたのだそう。

私自身の経験も今思えば、まさしく、発達障害だ!と思う特徴にリンクすることが多々ある。例えば、給食に出てくるおかずが嫌いで、1年か2年生の時に担任の先生が「全部食べ終わるまで帰ってはいけない」と言って放課後の教室に1人残された。食べれないものは残されても食べれるはずもなく(冷たくなったおかずはまずさを増していた)先生の言いつけ通り、「食べるまで帰らない」と決めた私は暗くなった教室に1人で残っていた。普通なら泣くとか、先生を探して職員室とかに行きそうなもんだけど、その時の私はその場から動くことなく、真っ暗になった教室に用務員のおじさんが懐中電灯を持って来たことで、見つけてもらい、「先生はもう帰ったよ」の一言で解放してもらったのだ。

今の時代だとかなり問題になりそうな案件だけど、商売をやっていて5人姉妹と子沢山の家族だったので、私が帰ってきてないことに誰も気が付かなかったのか?騒ぎにはならなかったようだ。これはある意味発達障害の子どもの特徴である、「相手が大人でも、学校の先生であっても自分の信念を貫く」という一つの特徴だったりするのだそう。

そうい言う意味では多かれ少なかれ人は「定型発達と発達障害」を併せ持っているということなのだそう。どういうことか?一つづつみていこう。

定型発達とは  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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定型発達(ていけいはったつ、英: typical development, TD)とは発達障害でない人々(あるいはそのような状態)を意味する用語である。英語圏に於ける神経学的定型(neurologically typical, neurotypical, NT)に概ね対応する。後者は英語圏の自閉コミュニティ(英語版)において自閉スペクトラム上にない人々のラベルとして広く用いられている造語であり、その起源は自閉者のセルフ・アドボカシー団体であるAutism Network Internationalである。[1][2]自閉コミュニティにおける当初の使用法では、それは自閉でないか、または自閉に似た脳を持つ類縁者(cousin)ですらないような、全ての人々を指していた。[3]すなわち、自閉的な脳を持たない人々を指していたのである。例えば、自閉的な傾向性を持たないが学習障害である人々は、この用法では「定型」と呼ばれる。

何故?何のために?「イシューは何か?」をもう一度

イシューとは マイナビビジネス用語より 「イシュー」と似た意味としてとらえがちな言葉に「プロブレム(problem)」があります。「イシュー」も「プロブレム」も「問題」と訳せますが、ニュアンスや使い方は異なります。「プロブレム」は直接的に害のある問題として使用され、「イシュー」は向上する余地がある問題を意味しています。たとえば、水道管に亀裂が見つかり破裂しそうだから直さなければならないという問題は「プロブレム」、水道管をより長持ちさせるためにはどうすればいいのかという問題は「イシュー」であると考えることができます。営業方針を定める社内ミーティングの場面などで「イシューを特定する」と、いった使い方をすることがあります。

この「イシュー」という考え方を習慣の中に入れていこうという一つに「7つの習慣」の中のマトリクスがあります。

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自分にとっての幸せなゴールを間違えない

人は毎日の生活の中で、目の前のことが忙しかったり、何か嫌なことがあったり、誰かに何かを言われたりすることで、本来の自分が目指すゴールが見えなくなったりすることがある。それは、「7つの習慣」の中での第一領域である「せっぱつまった問題」なのだ。つまり、今すぐ決断してうごかなくては手遅れになる可能性がある問題。ところが、この問題を引き起こした原因は第一領域の中にあるのではなく、そのほとんどが第二領域にあるのだそう。つまり、人間関係作りだったり、健康維持だったり、準備や計画だったり、リーダーシップだったり、真のレクリエーションだったり、勉強や自己啓発だったり、品質の改善だったり、エンパワーメントだったりするのだそう。つまり、第二領域の「重要だけど緊急でない」この領域が自分にとっての幸せなゴールに行くための「イシュー」なのだそう。水道管を長持ちさせるための領域を怠ったがために「緊急で重要なこと」が起こってしまうと言うこと。

幸せなゴールに行くための地図は第二領域の中にあるのです。


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