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第29週 木曜日作家・歌人・漫画家 樋口一葉

はじめに

29週目の女性作家は樋口一葉さんです。

お生まれと家族

樋口 一葉(ひぐち いちよう)さんは、1872年5月2日(明治5年3月25日)京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の東京都千代田区)の長屋(官舎)で東京府の下級役人の樋口則義氏と多喜さん(旧姓・古屋)の次女として樋口奈津さんとしてお生まれになりました。

戸籍は奈津さんだそうですがご本人は「夏子」と名乗ることが多かったそうです。

お姉さんにふじさん、お兄さんに泉太郎氏、虎之助氏がおり、一後に妹くにさんが生まれたそうです。


樋口家は甲斐国山梨郡中萩原村重郎原(現:山梨県甲州市塩山)の長百姓だそうです。

祖父の八左衛門氏は一葉さんが生まれる前年に死去しているが、学問を好み俳諧や狂歌、漢詩に親しんだ人物で、江戸の御家人真下晩菘(専之丞)から江戸の情報を知り、幕末の横浜開港に際しては生糸輸出の事業にも着手しているそうです。

一葉さんは後に『にごりえ』で、八左衛門の教養や反骨精神を主人公お力の祖父に重ねて描かれています。

父の則義氏も農業より学問を好んだそうです。

多喜さんとの結婚を許されなかったため、駆け落ち同然で江戸に出たという。則義氏は蕃書調所勤番であった晩菘を頼って同所使用人となり、1867年(慶応3年)には同心株を買い、運良く幕府直参となり、明治維新後には下級役人として士族の身分を得て東京府庁に勤めたが、1876年(明治9年)に免職されます。

1877年(明治10年)には警視庁の雇となり、1880年(明治13年)には、勤めのかたわら闇金融、土地家屋の売買に力を入れたそうです。

職権などで入手した情報などをもとに、不動産の売買・斡旋などを副業に生計を立てていたそうです。


樋口一葉さんのお名前

「樋口一葉」として知られるが、歌人としては夏子、小説家としては無姓志向の一葉、新聞小説の戯号は浅香のぬま子、春日野しか子として筆名を使い分けているそうです。

発表作品においては「樋口夏子」に類する本名系と「一葉」の雅号系に分類される。

「樋口一葉」と混合した署名を用いている例はわずか一つであり、「たけくらべ」未定稿などにおいて「一葉」と記された署名に別人の手により姓が書き加えられているケースがある。

明治前半期の女性作家においては家への抵抗や姓の変遷などから同様に姓の忌避や創作世界においては雅号を用いるといった署名傾向があり、一葉にも女戸主としての意識が強くあったとも考えられているそうです。

一葉という筆名は、当時困窮していた事(お足が無い)と一枚の葦の葉の舟に乗って中国へ渡り後に手足を失った達磨の逸話に引っ掛けたものだそうです。

子ども時代



一葉さんは 幼児期から利発で言葉が出るのも早く物覚えがよかったそうです。

 1877年(明治10年)、満4歳10か月で公立本郷小学校に入学されますが、幼少のためにほどなく退学し、半年後、吉川富吉氏が始めた私立吉川学校に入学したそうです。

一葉さんの日記『塵之中』によれば、幼少時代は手毬や羽根つきなど同年代の子供の遊びに興味がなく、読書を好み草双紙の類いを読み耽っていたそうです。

また曲亭馬琴『南総里見八犬伝』を3日で読破したとも伝えられています。

 1881年(明治14年)、素行が悪く金銭問題などを起こしていた次兄の虎之助が分家し、陶器絵付師に弟子入りするという形で勘当されてしまいます。

家族は同年には下谷区御徒町へ移ったため、11月に一葉さんも上野元黒門町の私立青海学校に転校されます。

ここで初めて和歌を習われます。

1883年(明治16年)12月、高等科第四級を首席で卒業するも、上級に進まずに退学されます。

これは母・多喜さんが、女性に学業は不要だと考えていたからだそうです。

中島歌子さんの下で学ぶ

お父さん則義氏は向学心やまない娘のため、知人の和田重雄氏の下で一葉さんに和歌を習わせます。

1886年(明治19年)、父の旧幕時代の知人である医師の遠田澄庵氏の紹介で、中島歌子さんの歌塾「萩の舎」(はぎのや)に入門されます。

ここで一葉さんは和歌のほか千蔭流の書や王朝文学の購読を学ばれます。

萩の舎は当時、公家・旧大名などの旧体制名家、明治政府の特権階級である政治家・軍人の夫人や令嬢らが通い、門人は千人を超える歌塾だったそうです。

士族とはいえ下級役人の娘だった一葉さんは平民の伊東夏子さんや田中みの子さんと仲良くなり「平民三人組」と称されたそうです。

入門の翌年、二月に行われる新春恒例の発会が近づくと、令嬢たちの晴れ着の話題など、着物の話はとても下級官吏の娘が競える内容ではなかったそうです。

一葉さんは気おくれしながらも親が借りてきた古着で出席され、この発会の歌会で一葉さんは最高点を取られます。

名家の令嬢であった田辺花圃(本名・龍子)さんは『思い出の人々』という自伝の中で、一葉さんについて「萩の舎」の月例会で、友人と床の間の前で寿司の配膳を待ちながら「清風徐ろに吹来つて水波起らず」という『赤壁賦』の一節を読み上げていたら、給仕をしていた猫背の女が「酒を挙げて客に属し、明月の詩を誦し窈窕の章を歌ふ」と口ずさんだのに気付いて、「なんだ、生意気な女」と思っていたら、それが一葉さんで、先生から「特別に目をかけてあげてほしい」と言われて紹介されたと、初めて一葉さんと会ったときのエピソードを紹介し、一葉さんは女中と内弟子を兼ねた働く人のようだったと書いておられるそうです。

このとき一葉さんは15歳、花圃さんは18歳だったそうです。

のちに2人は萩の舎の二才媛と呼ばれたそうです。

このように入門当初は才気煥発なところを見せていた一葉さんだったのですが、周囲との格差から次第に内向的になり「ものつつみの君」と呼ばれるようになったそうです。

生活にくるしむようになる


樋口家の戸主であった長男の泉太郎氏は、1885年(明治18年)に明治法律学校(明治大学の前身)に入学されましたが、1887年(明治20年)に退学。その後、お父さん則義氏の知人の紹介で大蔵省出納局に勤務していておられましたが、12月27日、肺結核で死去します。

一葉さんはお父さんを後見に相続戸主となられます。

1889年(明治22年)、警視庁を退職した則義氏は家屋敷を売った金を注ぎ込み荷車請負業組合設立の事業に参画するが、出資金を騙し取られて失敗し、負債を残して同年7月に死去します。

こうして一葉さんは17歳で樋口家を背負うことになりました。

一葉さんには渋谷三郎氏という許婚がいたが、お父さん則義氏の死後に婚約は解消されたそうです。

渋谷氏は則義氏と同郷で上京後の則義氏を支援した真下晩菘氏の妾腹の孫(政治結社「融貫社」の渋谷仙次郎の子)で、自由民権運動の活動家で自由党員でもあり、当時は東京専門学校(早稲田大学の前身)の法科で学んでいたそうです。

高等文官試験をめざしていた渋谷氏が、則義氏の死後、学費や生活費の保証を求めたことが母・多喜さんの怒りをかったと推測されているそうです。

その後、渋谷氏は高等文官試験に合格し、新潟の裁判所司法官試補などを経て、月俸50円の検事となり、人を通じて一葉さんと復縁しようとして再び多喜さんを怒らせたそうです。

樋口家は次男の虎之助氏を頼ったが、母と虎之助の折り合いが悪く、1890年(明治23年)には一葉さんが萩の舎の内弟子として中島家に住み込む。しかし歌塾の手伝いだけでなく女中のような勝手仕事までさせられたため5か月で辞めたそうです。

同年9月には、家賃の安い借家へ移ろうと、本郷菊坂(現在の東京都文京区)に引っ越し、母と妹と3人での針仕事や洗い張り、下駄の蝉表(せみおもて。細い籐を編んだもの。夏用の駒下駄の表に張るのに使う)作りなどの賃仕事をされますが、それだけでは足りず、方々に借金を繰り返す苦しい生活を強いられることになります。

建物が現存する旧伊勢屋質店に通うこともしばしばであったそうです。

小説家へ


「萩の舎」同門の姉弟子である田辺花圃さんが1888年(明治21年)小説『薮の鶯』を出版されし、33円という多額の原稿料を得たのを知っていた一葉さんは、明治22年頃より小説を書こうと決意されます。

台東区立一葉記念館学芸員の石井広士氏によると、強度の近視であった一葉さんにとって、針仕事による頭痛や肩こりが酷かったことも一因ではないかということです。。

1891年(明治24年)、数え年20歳で『かれ尾花』などいくつか習作を執筆されます。

同年4月15日、妹のくにさんの知り合いの野々宮菊子さんの紹介で、東京朝日新聞専属作家の半井桃水氏を訪ね、師事することになられます。

1892年(明治25年)3月に半井氏は同人誌『武蔵野』を創刊し、一葉さんは『闇桜』を「一葉」の筆名で同誌創刊号に発表されます。

半井氏は一葉さんを東京朝日新聞主筆の小宮山桂介氏に紹介しましたが、一葉さんの小説は採用されず、新聞小説で原稿料を得ようとした一葉さんは落胆されたそうです。

また2人の仲を噂する醜聞が萩の舎で広まったため、中島歌子さんや伊東夏子さんに交際を反対され、6月22日、桃水と絶交することになります。

その後、一葉さんは上野図書館に通い独学されたそうです。

田辺花圃さんの紹介で、これまでとはスタイルの異なる幸田露伴風の理想主義的な小説『うもれ木』を雑誌『都之花』に発表されます。

こうして一葉さんは初めて原稿料11円50銭を受け取られます。

このうち6円は借金の返済にあてられたそうです。

作家としての活躍

奇跡の14ヶ月
田辺花圃さんの紹介で、一葉さんは『文学界』創刊号に『雪の日』を発表されます。その後同人の平田禿木氏の訪問を受け親しく語り合われたそうです。

その後、筆が進まない一葉さんは、生活苦打開のため1893年(明治26年)7月、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開かれます。

この時の経験が、後に代表作となる小説『たけくらべ』の題材となっているそうです。

年末、『琴の音』を文学界に発表されます。

翌年1月には近所に同業者が開業したため、商売が苦しくなられます。

相場師になろうと占い師の久佐賀義孝氏に接近され、借金を申し込まれています。

1894年(明治27年)5月には店を引き払い、本郷区丸山福山町(現在の文京区西片一丁目)に転居されます。

この頃萩の舎と交渉し、月2円の助教料が得られるようになった。

同年12月に『大つごもり』を『文学界』に発表されます。

1895年(明治28年)には半井桃水氏から博文館の大橋乙羽氏を紹介されます。

博文館は明治20年に創業された出版社で、『太陽』『文藝倶楽部』などを発刊し、春陽堂と並び出版界をリードする存在でした。

大橋乙羽氏は作家として活動していましたが、博文館の館主・大橋佐平に認められ、佐平の長女大橋ときさんを妻に迎えました。大橋夫妻は一葉さんに活躍の場を与え経済的にも支援しており、大橋ときさんは一葉に入門して和歌を学ばれたそうです。

乙羽氏は明治28年同年3月の一葉さん宛書簡で小説の寄稿を依頼されています。

この年は1月から『たけくらべ』を7回にわたり発表し、その合間に乙羽氏の依頼で『ゆく雲』を執筆したほか、大橋ときさんの依頼で『経つくえ』を書き改めた上で『文藝倶楽部』に再掲載させています。

また乙羽氏の支援によって『にごりえ』『十三夜』などを発表している。『大つごもり』から『裏紫』にかけての期間を、一葉研究家の和田芳恵さんは「奇跡の14ヶ月」と呼んでおられるそうです。

なお、明治28年は7月12日に父・則義氏の七回忌法要があるため、一葉さんは大橋ときさんに法要のための原稿料前借りを申し出ているそうです。

乙羽氏はこれを了承し、一葉さんは7月下旬に未完成の『にごりえ』原稿は届け、8月2日には残りの原稿が渡されたそうです。

1895年(明治28年)4月から樋口家には馬場孤蝶や島崎藤村氏など『文学界』同人や斎藤緑雨氏といった文筆家などの来客が毎日訪れるようになり、文学サロンのようになったそうです。

一葉は着るものにも困る生活であったが、来客を歓迎し、鰻や寿司を取り寄せてふるまったそうです。

晩年


1896年(明治29年)には『文藝倶楽部』に『たけくらべ』が一括掲載されると、森鷗外氏や幸田露伴氏は同人誌『めさまし草』で一葉さんを高く評価します。

5月には『われから』を『文藝倶楽部』で、『通俗書簡文』を『日用百科全書』で発表されます。

しかし一葉さんは治療法が当時なかった肺結核が進行しており、8月に斎藤緑雨氏の依頼を受けた(自らも医者である)森鴎外氏が、当代随一と言える樫村清徳氏、青山胤通氏らの医師を頼み往診に向かわせたそうですが、恢復が絶望的との診断を受けられます。

11月23日、丸山福山町の自宅において、24歳と6ヶ月で死去されます。

自宅跡には、一葉終焉の地であることを示す石碑が建てられています。

葬儀は11月25日に他人にきてもらうだけの営みができないという理由で、身内だけ十数人で築地本願寺で質素に行われたそうです。

一葉さんの才を高く評価し、その早世を惜しんだ森鴎外氏は、”陸軍一等軍医正・森林太郎”としての正装の上で、騎馬にて棺に従う参列を打診したが、遺族に丁重に断られているそうです。

一葉の作家生活は14ヶ月余りで、死後の翌1897年(明治30年)には『一葉全集』『校訂一葉全集』が刊行されました。



樋口一葉さんの評価



一葉さんは近代以降では最初の職業女流作家です。

『一葉の四季』(岩波新書)著者の森まゆみさんは、女性が小説だけで身を立てようと志したのは「日本史上初の無謀な決心」と位置付けておられるそうです。

24年間の生涯の中で、特に亡くなる間際の1年2ヶ月の期間に日本の近代文学史に残る作品を残されました

家が没落していく中で、自らが士族の出であるという誇りを終生持ち続けたが、それがゆえに生計を立てにくかったという見解もあるそうです。

生活は非常に苦しかったために、筆を折ることも決意したが、雑貨店を開いた吉原近郊での生活はその作風に影響を与えたそうです。

一葉さんは井原西鶴風の雅俗折衷の文体で、明治期の女性の立ち振る舞いや、それによる悲哀を描写しておられます。

『たけくらべ』では吉原近くの大音寺前を舞台にして、思春期頃の少年少女の様子を情緒ある文章で描かれたそうです。

一葉さんは題名を変えつつ日記をつけており(『若葉かけ』『薼中につ記』『筆すさひ』等)、日記文学の価値も高いそうです。



以下にウィキペディアにある樋口一葉さんの作品と有名作品解題を引用しておきます。


作品解題
小説
闇桜(1892年3月『武蔵野』)
幼馴染の園田良之助と中村千代の淡い初恋を描いたもの。千代は良之助への忍ぶ恋情に悩み、ついに病床に臥すようになり儚くなってしまうのであった。結末の「風もなき軒端の桜ほろほろとこぼれて、夕やみの空鐘の音かなし」が題名の由来である。
別れ霜(1892年4月『改進新聞』)
松沢芳之助と新田高は父親同士が義理の兄弟の呉服商であった。ところが高の父運平の姦計で松沢家は没落、生活に窮乏して芳之助は車夫に身を落とした。一方、高には医学士某との縁談が持ち上がり、父運平も乗り気になった。ある日、音曲会の帰りに高は偶然芳之助の車に乗ることとなり、後の逢引の日取りも決めたが、その日に芳之助が現れなかったので高は芳之助親子の住む陋屋を訪ねるが、芳之助の父にすげなく追い払われてしまった。行く末を儚んだ芳之助と高は新田家の墓所で心中を図るが高だけが生き残ってしまった。お高は自宅に軟禁され自殺しないように監視されるが、ある夜芳之助のあとを追うため失踪してしまうのであった。
たま欅(1892年4月『武さし野』)
大身の旗本の子孫であるが両親を失い孤独な青柳いと子に忠節を尽くしていたのは家来筋の松野雪三であった。或る夏の夕暮れ、いと子は隣家の植木屋に避暑に来ていた子爵の息子竹村緑と垣根越しに偶然顔をあわせ二人とも恋に落ちてしまった。一方、雪三のいと子への忠誠心はやがて激しい恋情にかわり、雪三は竹村家から申し込みのあったいと子の縁談を独断で断ってしまった。いと子は雪三と緑両方の恋情の板挟みに苦しみ自害して果てるのであった。
五月雨(1892年7月『武さし野』)
仕える令嬢の恋の使者を務めた腰元、その相手は以前故郷で将来を誓いあった幼馴染だった。返事のないまま男は行方知れずになったが、あるとき寺の前にたたずむ若い雲水の顔を見て、二人の女はあっと声を上げた。
経づくえ(1892年10月『甲陽新報』)
自分の病院で亡くなった女の娘を援助する医学士、松島忠雄、娘のお園はどうしてもこの男を好きになれぬまま、医師は札幌に転勤して行ってしまい、そこで病死する。お園はその後縁もあったが、医学士に操を立て経机に向かい菩提を弔っている。
うもれ木(1892年11月『都之花』)
志は高いが赤貧に苦しむ陶芸家、入江藾三と妹お蝶。10年前恩師の金を持ち逃げした同門の篠原辰雄は今や慈善家となって前非を悔いており、2人は師の墓前で仲直りする。しかし篠原は実直な藾三を騙し、自分を慕うお蝶を利用して自らの目的を遂げようとする。
暁月夜(1893年2月『都之花』)
男嫌いの令嬢に興味を持った学生の敏は庭男となって子爵家に入り込み、弟甚之助を手なずけ、その仲介で彼女に恋文を渡すが、令嬢は封をも切らず、東京を離れ鎌倉の別荘に移ると言い出す。最後の別れのため夜忍び込んできた敏に、令嬢は自分は実は道ならぬ恋ゆえに生まれてきたと出生の秘密を語り、同じ過ちをせず勉学に励めと説く。
雪の日(1893年3月『文學界』)
琴の音(1893年12月『文學界』)
花ごもり(1894年2月『文學界』)
瀬川与之助は、母お近、幼い頃両親を亡くした従妹お新の、他に身寄りのない3人暮らし。若い2人はこのまま一生を仲よく過ごせたらと思っているが、息子の出世を願う母親は田原家令嬢との結婚話に心を動かされる。令嬢を紹介した月琴の師匠お辰の計らいで優柔不断の与之助をすかしてこれに同意させ、邪魔なお新は田舎に住む絵師のもとへ下働きとして送り出すことにする。お新が田舎行きを拒まなかったのは、絵の好きな与之助のため自分も習えると思ったから。素直なお新は企みがあるとはつゆ知らず、上野駅を発って行く。
暗(やみ)夜(1894年7月『文學界』)
主人公お蘭は婚約者に裏切られ、涙と怨念の中で暮らしている。お蘭の屋敷近くで、その婚約者の車に轢かれた直次郎が屋敷に運び込まれ、直次郎はお蘭に恋をする。お蘭から婚約者の裏切りを聞いた直次郎は婚約者の暗殺を決心する。
大つごもり(1894年12月『文學界』)
たけくらべ(1895年1月 - 1896年1月『文學界』)
軒もる月(1895年4月『毎日新聞』[56])
月の夜、人妻が寝る子を眺めながら、以前仕えていた桜町の殿からもらった12通の恋文を前にして思い悩んでいる。女は決心して初めて手紙の封を切り、読み終わると切り刻んで火の中にくべてゆく。
ゆく雲(1895年5月『太陽』)
うつせみ(1895年8月『読売新聞』)
閑静な土地の空き家に若い病人の雪子が移り住んできた。精神の病いで、一月ごとに駄々をこねて転宅を繰り返しているのである。原因は雪子が振った植村が自殺したことに罪悪感を感じているらしい。良家の一粒種で両親も気が気でないが、雪子の狂気は募ってゆく。
にごりえ(1895年9月『文藝倶楽部』)
十三夜(1895年12月『文藝倶楽部』)
官吏に嫁ぎ、一子を儲けたものの、夫の虐待に耐えかねて実家に逃げ帰ったお関。しかし、父はそんなお関を諭し、婚家に帰らせる。その帰り道、上野の森で拾った人力車の車夫は、かつてのお関の幼馴染で、煙草屋の一人息子録之助だった。互いに淡い恋心を抱いていた2人だったが、お関の結婚後、録之助は自暴自棄になって家産を食いつぶし、車夫にまで堕ちていたのであった。
2014年5月2日のGoogleロゴは樋口一葉の生誕142年にちなむものだったが、月に照らされた森で車夫と若い女性が見つめ合っているというイラストで、本作品のラストシーンに基づくとみられている。
この子(1896年1月『日本乃家庭』)
強情でわがままに育った主人公が、新婚の裁判官の夫とそりが合わなくなり、縁組みをした親を恨んだり、子供が元気に生まれてきたことまで神に呪ったりする。しかし赤ん坊の笑顔を見ているうちに心が和みだし、自分のいけなかったところまでがはっきり見えてくるようになる。まさに我が子は人生で最大の師である。
(全編が主人公の述懐として「です・ます」調で書かれているため、一葉の小説では唯一の言文一致の作品である。)
わかれ道(1896年1月『国民之友』)
お針仕事が稼業のお京の長屋に傘屋の油引きの吉三が通ってくる。天涯孤独の吉三は仲間から一寸法師とあざけられ、つまらない人生を送っているが、行けば餅をごちそうしてくれる姉のようなお京だけが生きてゆく支えのようなもの。ある日お京から人の妾になることを告げられた吉三は、自ら望まぬところへ行くのはおよしとすねるように訴える。
うらむらさき(裏紫)(1896年2月『新文壇』)
届いた手紙を、姉からの相談事と、人のいい夫に嘘をつき、愛人のもとへ急ぐ主人公お律。発表されているのは、お律が家を出たあとの心持ちを吐露する場面までで未完。
われから(1896年5月『文藝倶楽部』)
大蔵省の下級役人金村与四郎の幼なじみの妻美尾は人からうらやまれるほどの美人だが、夫の給料の少ないのが恥ずかしく着飾った人を見るたび不満が募る。勉強して出世してくれと訴えるが夫は逆に腹を立てるだけ。女の子が出来た直後、子供を残して突然家出をしてしまう。それから25年の間に、与四郎は一念発起して金を貯め50歳を待たずに亡くなるが、そのおかげで娘の町子は恭助という婿をもらい、気ままな暮らしをしている。ただ子供ができず、夫の女遊びも止まないまま、捨てられるのではという不安な毎日だったが、ある大掃除の日、召使いたちの噂話を壁ごしに聞いて旦那様には妾と10歳になる子供があることを知る。癇癪を起こし出した町子の介抱に書生の千葉が日夜励んだことがかえって悪い噂を近所にまくことになり、町子は突然夫から別居を言い渡される。
随筆
雨の夜―そゞろごと(1895年9月『読売新聞』)
月の夜―そゞろごと(1895年9月『読売新聞』)
雁がね―そゞろごと(1895年10月『読売新聞』)
虫の声―そゞろごと(1895年10月『読売新聞』)
ほとゝぎす―すゞろごと(1896年7月『文芸倶楽部』)
文庫本(近年)
『樋口一葉 1872-1896』ちくま文庫 2008年
『樋口一葉和歌集』ちくま文庫 2005年 今井恵子編
『樋口一葉日記・書簡集』ちくま文庫 2005年 関礼子編 
『樋口一葉小説集』ちくま文庫 2005年 菅聡子編
『にごりえ・たけくらべ』新潮文庫 改版2003年
 他に岩波文庫・角川文庫
『大つごもり・十三夜 他五篇』岩波文庫、のちワイド版
『一葉恋愛日記』角川文庫 1997年 和田芳恵編注
『一葉青春日記』角川文庫 1997年 和田芳恵編注
主な作品集
『樋口一葉全集』(全6巻)筑摩書房、1994年完結
『明治文学全集30 樋口一葉集』和田芳恵編、筑摩書房、1977年
『新日本古典文学大系 明治編24 樋口一葉集』菅聡子・関礼子校注、岩波書店、2001年 
『明治の文学17 樋口一葉』中野翠編、筑摩書房、2000年
『全集樋口一葉』前田愛ほか校注、小学館、新装版1996年
 1・2巻 小説編、3巻 日記編、別巻 一葉伝説(同時代の評伝)
映像化作品
映画
『にごりえ』(1953年松竹 監督 : 今井正)
『たけくらべ』(1955年新東宝 監督 : 五所平之助)
関連作品
回想
田辺夏子『一葉の憶ひ出』潮鳴会、1950年。
田辺夏子、三宅花圃『一葉の憶ひ出』松坂俊夫解說、日本図書センター〈近代作家研究叢書〉、1984年。ISBN 4820503529。
薄田泣菫、戸川秋骨、岡野知十、疋田達子、平田禿木、星野天知、馬場孤蝶、三宅花圃、半井桃水、島崎藤村、幸田露伴、田辺夏子、樋口くに『一葉のポルトレ』小池昌代解説、みすず書房〈大人の本棚〉、2012年。ISBN 978-4-622-08099-2。
映画
『樋口一葉』(1939年東宝 監督:並木鏡太郎)
TVドラマ
ドラマ青年第三部『樋口一葉』(1962年NHKテレビ 脚本:池田忠雄 主演:小林千登勢)
『樋口一葉 われは女成りけるものを…』(1985年NHKテレビ 脚本:大野靖子 主演:大原麗子、石坂浩二)
新札発行記念ドラマ『樋口一葉物語』(2004年TBSテレビ 脚本:渡辺千穂 主演:内山理名、永井大)
演劇
『頭痛肩こり樋口一葉』(1984年初演 こまつ座 作:井上ひさし 演出:木村光一)
『書く女』(2006年二兎社 作・演出:永井愛 出演:寺島しのぶ、筒井道隆)
『偽伝、樋口一葉』(2006年アロッタファジャイナ 監修:金子修介 作・演出:松枝佳紀 主演:満島ひかり、俊藤光利)
『十三夜と一葉日記』(2014年いちまるよん 出演:奥山眞佐子 尺八:本間豊堂)[57]
『大つごもりと一葉日記』(2015年いちまるよん 出演:奥山眞佐子 お囃子:高橋香衣)
『書く女』(2016年二兎社 作・演出:永井愛 出演:黒木華、平岳大)
『樋口一葉没後120年記念公演・にごりえ』(2016年いちまるよん 出演:奥山眞佐子 尺八:本間豊堂)
『樋口一葉没後120年記念公演・一葉の母 そして 十三夜』(2016年いちまるよん 出演:奥山眞佐子 浄瑠璃:常磐津和英太夫 三味線:常磐津菊与志郎)
『樋口一葉没後120年記念公演・一葉日記 そして 大つごもり』(2016年いちまるよん 出演:奥山眞佐子 お囃子:高橋香衣)
『樋口一葉の世界 奥山眞佐子ひとり芝居20周年記念公演・一葉日記 そして たけくらべ』(2017年いちまるよん 出演:奥山眞佐子 浄瑠璃:常磐津和英太夫 三味線:常磐津菊与志郎 お囃子:高橋香衣)[58]
小説
山田風太郎『からゆき草紙』(『明治波濤歌』収録) - 一葉および『たけくらべ』の登場人物たちが登場。
小谷野敦『美人作家は二度死ぬ』 - 一葉が長生きして「忘れられた作家」となったパラレルワールドを描く。
漫画
上村一夫『一葉裏日誌』
杉本亜未『闇の瞬き〜樋口一葉、奇跡の14ヵ月間〜』講談社『週刊モーニング』2014年9号に掲載。
CD
『一葉恋歌』(2004年に石川さゆりがテイチクレコードよりリリース)
CM
ACジャパン2015年度の結核予防会支援キャンペーン「JOYと偉人」(肖像で出演)
人物伝
学習漫画
『ちびまる子ちゃんの樋口一葉』(2004年集英社 キャラクター原作:さくらももこ 監修:森まゆみ 漫画:高橋由佳利 シナリオ:伊藤智義) 
その他
『栄光なき天才たち』(1987年集英社 作:伊藤智義 画:森田信吾)※単行本第2巻に収録


めぐめぐがすごいと思う樋口一葉さんのこと


1本当に素晴らしい文の才能があられて、多くの人に認められる作品を短期間に多数書かれていること。

2またお金を工面するために様々な新しいことにチャレンジし、たくさんの人脈を使われていること

3そして当時多くの人に愛され、その作品が今日まで多くの人々を感動させていること

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