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第31週 世界で活躍した女性 緒方貞子

はじめに

今日の世界で活躍された女性は国際政治学者で上智大学名誉教授独立行政法人国際協力機構理事長、国連人権委員会日本政府代表、日本人初の国連難民高等弁務官、アフガニスタン支援政府特別代表を歴任。また日本における模擬国連活動の創始者でもある緒方貞子さんです。


お生まれとご家族



緒方 貞子(おがた さだこ)さんは、1927年〈昭和2年〉9月16日東京府東京市麻布区(現東京都港区)に外交官・元フィンランド特命全権公使の中村豊一氏・恒子さん夫妻の長女としてお生まれになられました。

命名は五・一五事件で首相在職中に暗殺された曾祖父の犬養毅氏によるそうです。

祖父は外交官で犬養内閣の外相を務めた芳澤謙吉氏。母・恒子さんは元共同通信社長の犬養康彦氏や評論家の犬養道子さん、エッセイストの安藤和津さん(いずれも犬養健氏の子)の従姉に当たるそうです。

夫・緒方四十郎氏(元日本銀行理事)は、朝日新聞社副社長や自由党総裁、吉田茂政権で副総理をつとめた緒方竹虎氏の三男であられるそうです。

緒方姓は竹虎の祖父・郁蔵氏(本姓大戸氏、備中(岡山県)出身)が緒方洪庵と義兄弟の盟を結びその姓を名乗らせたことに始まるそうです。

長男の緒方篤は映画監督だそうです。

また外務事務次官や在アメリカ合衆国日本大使を務めた外交官の井口貞夫氏は義理のおじ。外務事務次官や侍従長を務めた外交官の川島裕氏は従弟。慶応義塾大学教授で同じく戦後に米国留学し、日本の女性国連職員の草分けである佐々波楊子(旧姓川島)さんも従妹にあたるそうです。


大学院時代まで


お父さんの転勤で貞子さんは幼少期をアメリカ・サンフランシスコ(バークレー)、中国・広東省、香港などで過ごされます。

小学校5年生の時に日本に戻り、聖心女子学院に転入されます。

その後聖心女子大学文学部英文科(現:英語英文学科英語英文学専攻)を卒業(自治会の会長も務める)。

その後、お父さんや、聖心女子大学学長のブリット氏の勧めでジョージタウン大学およびカリフォルニア大学バークレー校の大学院で学び、政治学の博士号を取得されます。

大学院での指導教員はアジアの政治・国際関係を専門としたロバート・スカラピーノ氏だそうです。



緒方貞子さんの研究・公的活動

1965年緒方貞子さんは国際基督教大学非常勤講師になられます。
1968年(昭和43年)参議院議員を務めていた市川房枝さんの訪問を受けて、市川さんから「今年(1968年)の国際連合総会日本代表団に加わって戴きたい」と要請されます。これが契機となって緒方自身は国際連合の仕事に関わるようになったそうです。

国連は1975年(昭和50年)を国際婦人年とすることを宣言します。

日本社会党の田中寿美子さんが参議院の外務委員会で「国際婦人年にちなみ、女性民間人を大使、公使に起用しては」と提言すると、宮澤喜一外務大臣は「ぜひ実現したい」と返答します。

曾野綾子さんや中根千枝さんなど10人近くの候補が挙がるが、いずれも断られ、結局緒方が口説き落とされたそうです。

これにより緒方は女性国連公使第1号となられます。

1974年国際基督教大学準教授になられます。
1976-78年国連日本政府代表部公使を務められます。
1978–79年国連日本政府代表部特命全権公使、ユニセフ執行理事会議長になられます。
1979年外務省参与、日本政府カンボジア難民救済実情視察団団長なられます。


1980年上智大学教授になられます。
1980-88年上智大学国際関係研究所教授になられます。
1981-85年婦人問題企画推進会議委員を務められます。
1982-85年国連人権委員会日本政府代表になられます。
1983-87年国際人道問題独立委員会委員になられます。


1987-88年上智大学国際関係研究所長になられます。
1989-91年上智智大学外国語学部長になられます。
1990年:国連人権委員会ビルマ人権状況専門官(ビルマは現在のミャンマー)になられます。


1991年第8代国連難民高等弁務官に就任されます(1990年12月21日国連総会にて選出、任期は1991年1月1日から3年、2月18日就任)
1994年1月1日国連難民高等弁務官に再任されます(1993年11月4日国連総会にて再選。任期5年)
1999年1月1日に国連難民高等弁務官に再任されます(1998年9月29日国連総会にて再選。任期2年)

この時代に緒方さんが関わられた国際活動は以下のようにまとめられていますす。


高等弁務官に就任した1991年は東西対立構造がもたらした冷戦が終わりを告げ、民族、宗教などに起因する地域的な紛争が増え続けていた時期でした。
クルド難民-難民救済の新しい枠組み
緒方さんの就任時期に、湾岸戦争が勃発しました。それを機にイラクのクルド人が武装蜂起し、制圧しようとするイラク軍から逃れるため、わずか4日間のうちに180万人のクルド人がイランやトルコの国境地帯に逃れました。
そのうち40万人のクルド人がトルコの国境に向かって避難しましたが、トルコ政府が入国を認めなかったため、国内避難民として国境地帯にとどまることになりました。当時、UNHCRでは国内避難民の保護は直接的な任務ではなかったため支援を行うべきかが議論になりました。しかしながら緒方さんは人道的視点から、そして人命を守るため、彼らを保護し支援することを決断したのです。
短期間にできる限り多くのUNHCRの職員が集められ、すぐにイラクに派遣されました。そして冬を迎えようとする中、クルド人の出身地である北イラクにUNHCRは難民キャンプを設営しました。また、キャンプの治安維持のためイラク北部の駐留期間を延長するように米軍に要請しました。
この時、緒方さんは人道的見地からそれまでの難民保護の考え方を超え、新しい支援の枠組みを作り出したのです。
バルカン紛争-銃弾の中の人道援助
1993年サラエボを訪問 ©UNHCR/Sylvana Foa
ユーゴスラビア連邦からスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナが分離独立したことにより、1992年ボスニア紛争が始まりました。ボスニアにはセルビア系住民、クロアチア系住民、イスラム系住民が暮らしていましたが、独立をきっかけに民族対立が深刻化し内戦となったのです。
UNHCRはまずボスニア政府と交渉して、サラエボ市民に食糧の空輸を行いました。ところが、飛行場に届いた物資を町までトラックで運ぼうとすると、ボスニア政府はその道路を封鎖し、UNHCRによる物資の輸送と配布を妨害したのです。
サラエボ市内のセルビア系の地域にはイスラム系が多く暮らす一帯がところどころにあり、UNHCRはそうした場所も含めて物資を輸送しようと試みました。しかしそのためにはセルビア系が輸送を妨害しないよう、終始交渉しなければならず、輸送は遅々として進みませんでした。
この状況に対し、ボスニア政府はサラエボへの道路を封鎖することでイスラム系により多くの物資が届くように仕向けたのです。
そこで緒方さんは、もし道路を封鎖するのであれば、サラエボを含めて、セルビア人勢力支配下のボスニアにおける全ての救援活動を直ちに一時停止すると発表しました。人道支援が政治的に利用されることを回避するためでした。
紛争下の混乱した状況においても、緒方さんは常に冷静に 人道支援を政治的な思惑から引き離すよう努めました。
ルワンダ‐難民キャンプの治安維持

ルワンダでは1994年フツ族過激派によるツチ族の虐殺が起こり、わずか4ヶ月でおよそ80万人が虐殺されました。さらに24時間で推定25万人のルワンダ難民がタンザニアへと流出し、8月までにザイール(現コンゴ民主共和国)、タンザニア、ブルンジ、ウガンダなどへ200万人が逃れました。
ザイールのゴマに100万人規模で流入したルワンダ難民を支援するため、UNHCRはザイール国境沿いのゴマに難民キャンプを設営し、そこで食糧支援を行いました。
キャンプに逃れる難民の中には武装集団に居た人々も混ざっており、最大の難題はキャンプの治安をいかにして守るかということでした。 そのため緒方さんは治安維持のための協力を国際社会に何度も訴えましたが、その要請に応えてくれる国はありませんでした。非常に危険な任務であり、また、かつて武装集団に所属していた人々を保護するということに対する議論があったためです。
緒方さんは、ザイールのモブツ大統領の親衛隊とアフリカ諸国の仕官に訓練を施し、難民キャンプの治安維持にあたってもらうことに成功しました。
武装集団だった人々を支援することに対し倫理的に疑問を感じ、活動を引き上げる団体もありましたが、その中でもUNHCRは難民保護活動を継続していきました。




2000年難民教育基金を設立されます。
2000年12月31日国連難民高等弁務官を退任されます。


2001年人間の安全保障委員会共同議長になられます。
2001年11月アフガニスタン支援政府特別代表になられます。


2001年フランス・スウェーデン・ロシア・ドイツ・イタリアで受章されます。
2002年1月21-22日アフガニスタン復興支援国際会議共同議長を務められます。

2002年(平成14年)外務大臣田中真紀子さんの更迭時にはその後任に推す声もあったが、辞退したされています。

ご本人は外相就任について後に、「かなり迷った」と述懐しており、就任に前向きだった時期もあったとされたそうです。

しかし同時期に夫・四十郎氏の健康が悪化したことが最終的な辞退に繋がったそうです。


2003年国連有識者ハイレベル委員会委員、人間の安全保障諮問委員会議長に就任されます。


2003年10月1日国際協力機構 (JICA) 理事長就任されます。

また小泉純一郎首相(当時)の私的諮問機関として、2004年(平成16年)12月27日に設置された「皇室典範に関する有識者会議」に、メンバーの一人として参加されています。

いわゆる日本の皇位継承問題やそれに関連する制度(皇室典範)について、2005年(平成17年)1月より17回の会合を開き、同年11月24日には皇位継承について女性天皇・女系天皇の容認、長子優先を柱とした報告書を提出しています。

なお、緒方貞子さんと平成の皇室とは、上皇后美智子さんの母校が自身と同じ聖心女子大学であるという共通点があります。

2007年11月アメリカの銀行家、実業家、慈善家、ロックフェラー家第3代当主デイヴィッド・ロックフェラー氏が来日した時には、回顧録出版記念パーティーの発起人を務めておられます。


2011年人間の安全保障諮問委員会議長を退任し、人間の安全保障諮問委員会名誉議長に就任されます。


2012年3月31日国際協力機構 (JICA) 理事長退任され、翌日国際協力機構 (JICA) 特別顧問に就任されています。

2012年(平成24年)4月17日には、東京都内の外務省飯倉会館にて、当時の玄葉光一郎外務大臣(野田第1次改造内閣)主催で「緒方貞子氏の我が国及び国際社会への貢献に敬意を表すレセプション」が開催され、当時の野田佳彦首相も参加して挨拶されたそうです。

野田首相はその中で、

「昨年3月に私どもは東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)を経験しましたが、160を越える国から、40を越える国際機関から、温かい支援の申し出をいただきました。(中略)世界のために最前線に立って汗を流した日本人(=緒方貞子)がいたからこそ、このような世界から温かいご支援をいただいたものと思います。」

と述べておられます。


2019年10月22日 92歳で死去されました。死没日をもって従三位に叙されています。


緒方貞子さんが受けられた栄典


1993年:イタリア金の鳩平和賞
1994年:自由賞(英語版)(自由主義インターナショナル)、欠乏からの自由賞(4つの自由賞)[17]
1995年:フィラデルフィア自由賞(英語版)(ナショナル・コンスティテューション・センター)
1997年:マグサイサイ賞平和・国際理解部門(ラモン・マグサイサイ賞財団)
1999年:朝日賞特別賞(朝日新聞社、朝日新聞文化財団)
2000年:ソウル平和賞(ソウル平和賞文化財団)
2001年:日本の旗文化功労者[18]
2001年:インディラ・ガンディー賞(インディラ・ガンディー記念財団)
2001年:ドイツの旗ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章
2001年:フランスの旗レジオンドヌール勲章コマンドール
2001年:イタリアの旗イタリア共和国功労勲章カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェ
2001年:スウェーデンの旗北極星勲章(英語版)コマンデール第1等級
2001年:ロシアの旗友好勲章(英語版)
2002年:フルブライト賞(フルブライト・プログラム)
2002年:エレノア・ルーズベルト・ヴァルキル勲章[19](エレノア・ルーズベルト・センター)
2003年:日本の旗文化勲章[20]
2004年:東京都名誉都民
2005年:世界市民賞(英語版)(ガールガイド・ガールスカウト世界連盟)
2006年:フィリピンの旗ラカンドゥラ勲章(英語版)マリンガル・ラ・ピヌノ
2008年:オランダの旗オラニエ・ナッサウ勲章(英語版)グラントフィシエ
2009年:後藤新平賞(中国語版)(後藤新平の会)
2011年:イギリスの旗聖マイケル・聖ジョージ勲章デーム・コマンダー (DCMG)
2011年:キルギスの旗国家友好章(ダネケル章)
2012年:地球市民賞(英語版)(大西洋評議会)
2013年:メキシコの旗アステカ鷲勲章(英語版)バンダ
2013年:フィリピンの旗シカツナ勲章ダトゥ

緒方貞子さんの著書

単著
Defiance in Manchuria: the Making of Japanese Foreign Policy, 1931-1932, (Greenwood Press, 1964).
『満州事変と政策の形成過程』(原書房, 1966年)
 新版 『満州事変』(岩波現代文庫、2011年8月)
『日本における国際組織研究』(総合研究開発機構, 1982年)
Normalization with China: A Comparative Study of U.S. and Japanese Processes, (Institute of East Asian Studies, University of California, 1988).
添谷芳秀訳『戦後日中・米中関係』(東京大学出版会, 1992年)
『難民つくらぬ世界へ』(岩波書店, 1996年)
『私の仕事――国連難民高等弁務官の十年と平和の構築』(草思社, 2002年)
The Turbulent Decade: Confronting the Refugee Crises of the 1990s(WW Norton, 2005).
『紛争と難民――緒方貞子の回想』(集英社, 2006年)
『共に生きるということ――be humane』(PHP研究所、2013年)
共著
At the Global Crossroads : the Sylvia Ostry Foundation Lectures, (McGill-Queen's University Press, 2003).
ユニフェム日本『女性と復興支援――アフガニスタンの現場から』(岩波書店, 2004年)
野林健・納家政嗣編 『聞き書 緒方貞子回顧録』(岩波書店, 2015年9月/岩波現代文庫, 2020年3月)
編著
『転機の海外援助』(日本放送出版協会, 2005年)
共編著
(アンセルモ・マタイス)『世界の難民』(明石書店、1984年)
(半澤朝彦)『グローバル・ガヴァナンスの歴史的変容――国連と国際政治史』(ミネルヴァ書房、2007年)

テレビ出演
100年インタビュー(2011年1月27日、NHK BShi)
NHKスペシャル「緒方貞子 戦争が終わらない この世界で」[21](2013年8月17日、NHK)


緒方さんについての功績は前述のUNHCRの記事で以下のようにまとめられています。



緒方さんの実績と成果
緒方貞子さんは「人命を救うための最善の選択」という基準のもと、現場の状況に応じて柔軟に判断を行ってきました。
また、強力なリーダーシップのもと、UNHCRの緊急事態即応体制を強化し、各国政府の支持をとりつけ救援物資を輸送する大規模な空輸作戦を展開しました。これはUNHCR史上初めてのことでした。
同時に緒方さんは、こうした救援活動が人道主義の名のもとに政治的に利用されることに断固として抵抗し、紛争の恒久的解決を目指して国際社会に積極的な関与を求めました。難民問題と平和構築には深い関係があることを世界中に訴え続けたのです。


緒方さんは2000年に国連難民高等弁務官を退任してからは、総理特別代表としてアフガニスタンの復興支援をしながら、2003年JICA理事長に就任、開発援助、復興支援に携わりました。2012年に退任した後もJICA特別フェロー、名誉顧問として国内外で活躍しました。


めぐめぐがすごいと思う緒方貞子さんのこと

1自分の家族からの影響そして幼少期の体験を最大に生かして、世界中の苦しむ人々のためにその素晴らしい外交能力を使って世界で活躍されたこと。

2その素晴らしい活動を世界中の国々が認めて栄誉を受けておられること

3そして亡くなるまで開発援助・復興支援に関わり続けられていること


緒方さんが日本の外相になられていたら、日本の外交は変わっていたのかもしれせんが、そうしたら世界で多くの方が亡くなっていたのかもしれないなと思うと、不思議なめぐりあわせだなと思いました。




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