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第7週 火曜日 スポーツ選手 福原愛


第7週の7人目は卓球選手 福原愛さんです。


福原愛さんは秋田県大曲市(現・大仙市)出身(2013年10月6日逝去)のお父さん(当時、宮城県仙台市で会社経営)と、宮城県登米郡石越町(現・登米市)出身のお母さん(元・卓球選手)との間に、1988年(昭和63年)[注 1]11月1日に宮城県仙台市の病院にて出生されました。


「愛」という名は、出生の1年前に亡くなった祖母「愛子」からもらったそうです。

福原は6ヶ月でスイミングを始められました。

10歳年上のお兄さんが、東京在住の中国の卓球元チャンピオンに仙台に来てもらって1-2回/月の指導を受けていたが、費用面から仙台に移住してもらって毎日指導してもらえる環境を整えたそうです。

このような環境下、お母さんとお兄さんの影響で、1992年(平成4年)8月13日にお母さんからラケットをもらい、福原も卓球を始められました。

すなわち、3歳9ヶ月から卓球の英才教育を受けられましたが、プレイするには身長が低かったため、ゴミ箱や並べた缶詰の上に乗って高さ調整をして、平日4時間、休日8時間の練習を毎日欠かさず行ったそうです。

また、週末になると栃木県の有名な卓球クラブに出向き、泊まりがけで練習したそうです。

そして練習を始めて数ヶ月でミスなく100本ラリーが出来るようになり、4歳6ヶ月で1000本ラリーが出来るようになったそうです。

そして卓球クラブ「仙台ジュニアクラブ」に所属されました。


愛さんの初の公式戦出場は、1993年(平成5年)6月(4歳時)に開催された「宮城県小学生卓球選手権大会」であり、同大会で優勝、全国大会の同クラスでもベスト16に入られました。

公式戦中に泣き顔を見せたのはこの4歳のときだけだそうですが。マスコミは、幼稚園生が小学生のクラスで快進撃を続ける姿に注目し、「天才卓球少女」と報道しました。

これ以降、行く先々にマスコミが集まるようになるが(4歳でテレビでの初インタビューを受けた)、天真爛漫に振舞う福原はテレビでもしばしば取り上げられ「卓球の愛ちゃん」として知られるようになり、また、厳しい練習にも泣きながら耐える姿や、試合中に不利になり始めると泣き出す姿から「泣き虫・愛ちゃん」とも呼ばれるようになって、一躍国民的アイドルとなられました。

1994年(平成6年)になると卓球専門誌「卓球レポート」の表紙に4月号で初登場されました。

同年5月には社会人リーグの大会(鹿児島県)、同年6月には社会人の全日本実業団卓球選手権大会(大阪府)に呼ばれてエキシビションマッチでプレーするなど、本来の卓球界においても全国各地に呼ばれる人気者となりました。

また選手として2度目の全国大会に出場すると、個別にマスコミ対応していては福原の負担になるため初めて共同記者会見が開かれ、5歳10ヶ月の幼稚園生ながら、全日本選手権バンビの部(小2以下)において、史上最年少で優勝されます。

公式戦では4歳時にしか泣いていないそうですが、後に福原さんが「泣くまで撮影が続けられた」と語られたように、長年『あっぱれさんま大先生』に出演し子役の扱い方を知っているはずの明石家さんまが泣かし、南原は泣かすことを公言して対戦し、母親から泣かせ方を伝授されるなど、バラエティ番組では制作側によって意図的に泣かされ、その泣き姿がスポーツ報道における福原の紹介ビデオ等でも繰り返し放送されたことで、まるで子役タレントのキャッチコピーのような「泣き虫・愛ちゃん」というイメージが固定化されていったそうです。

その一方、同年の大会以降も数ある大会で優勝し、史上最年少記録を多く作っていくことで、「天才卓球少女」の名に違わぬ活躍を続けられました。

そして仙台白百合学園幼稚園年長の1995年(平成7年)3月(6歳時)にテレビゲームソフトメーカー「ハドソン」のCMに初出演されます。

同年4月に仙台市立吉成小学校に入学されます。


小4(10歳4ヶ月)でプロ宣言し、ミキハウス(大阪府八尾市)と専属契約を結び、1998年(平成10年)8月に仙台市より八尾市へ引っ越されます。

愛さんは当時できたばかりのミキハウス練習場に通うようになりました。

2年間通った王子卓球センターの作馬六郎から「王子サーブ」を習得し、以降このサーブは福原愛さんの代名詞ともなりました。

なお、同センター前の道路は、福原の功績により「ピンポン通り」と命名されました。

愛さんは大阪では公立小学校に通っておられましたが、小6の6月に、ITTFジャパンツアー一般の部に選ばれ初出場で代表デビューを果たされます。

中学は大阪の強豪である私立四天王寺中への進学を考えていたが、愛さんは既にプロ契約をしていたため、アマチュア規程により全中やインターハイなどには出場できないという懸念があったそうです。

そこで地元公立中へ入学したが、一ヶ月でスポーツの名門私立学校、青森山田中学校に転校されました。

青森山田中は中高一貫教育を目指してその年に開校した新しい学校でした。法人は卓球専用の体育館などの施設を備えていて同校を選んだのはミキハウスJSCに所属したままプロ活動をしたいという福原サイドの意向に、理解を示したのが大きな理由だそうです。

これにより福原さんは多くの卓球遠征が可能になりました。

(その後福原さんは「卓球界に大きな貢献をした」ということで、全中もインターハイも国体も特例で出場できるようになったそうです)。

ミキハウスは青森JSC(ジュニアスポーツクラブ)という組織を作り、福原さんをその所属としました。

以降、中学の3年間は世界各地のITTFプロツアーに数多く出場され安定した成績を見せ、世界ランキングを上げていかれました。

この頃国内の高校以下では無敵となり、また国際試合での強さも見せ、国内シニアの選手にも勝てるようになっていかれました。

選考会などを経て14歳の若さで2003年世界卓球選手権個人戦に抜擢され出場し、日本勢の中で一人躍進、ベスト8に進出されます。

この結果により翌2004年3月の世界選手権団体戦と、4月のアテネ五輪アジア予選出場が内定しました。

そして2001年にはコーチの黄智敏と1分間に175回のラリーを続けるというギネス記録を達成されています。


2004年4月、青森山田高等学校に進学されます。

日本より一人選ばれたドーハでの大陸予選でシングルス3位となり、その前年に「オリンピックは夢の夢の夢の夢」と言っていた福原が日本女子3枠目の座を勝ち取り、史上最年少の15歳で出場されました。

(他の出場者は梅村礼さん、藤沼亜衣さん。なお、小西杏さんと組んで挑んだダブルスは予選で敗退します)。

また長嶋茂雄氏の代役として、聖火リレーの最終走者も務められました。

アテネ五輪では1回戦をシード通過、2回戦をミャオミャオさんに辛勝、3回戦はガオ・ジュン(高軍)さんに圧勝、4回戦はキム・キョンア(金暻娥)さんに負けました。

福原さんの試合はゴールデンタイムで放送され、3回戦はメダルのかかっていない試合にもかかわらず平均20.1%、最高視聴率31.9%を獲得します。これはアテネ五輪放送の中でトップクラスの数字だったそうです。


2005年3月にはミキハウスとの契約が満了し、翌月グランプリとの契約を結ばれます。グランプリは福原が青森山田高校に通うことを承認し、中国リーグに2年連続で参加することも支援しました。その直後に、中国で最もレベルの高い中国超級(スーパー)リーグに参加され、遼寧本鋼チームと契約した。

この超級リーグは週1、2回の日程、広大な中国大陸を試合毎に行き来する移動に多忙を極めたそうですが、福原は全試合に出場されました。

だが、チームに世界2位の王楠、4位の郭躍がいたため、シングルスの出番が少なくダブルスが多かったそうです。

期間中は中国のインタビュー番組や、卓球の雑誌にも登場されました。

8月の最終戦は岡山県で、日本で初の超級の試合を行っておられます。

2005年2月にはアジアカップで強豪の郭焱さんを破り2位に、同年11月の女子ワールドカップ(各大陸の世界ランキング上位者と推薦選手の16人でのITTF大会でまだ新しい大会)に推薦が決まり出場されましたが、リ・ジャウエイさんや帖雅娜さんといった強豪相手に快進撃を続け3位銅メダルを獲得し、世界ランクを一気に16位まであげました。

更に2006年5月には世界選手権ブレーメン大会で銅メダル(2004年ドーハ団体に続き2度目)を獲得し.放送したテレビ東京の視聴率は最高12%を出したそうです。好調だった2006年度はチームを広東佐川急便に変えて超級リーグに参加されています(なお、チームの2006年度オーナー権を福原サイド(千秀企画)が買っている)。

父は高校卒業後の進路として当初、大学も青森山田学園系列の青森大学を考えていたそうですがが、福原本人が早稲田大学スポーツ科学部を強く志望し、2006年8月より書類提出、面接を経て9月13日に合格が決ました。同学部による2年目の実施となるトップアスリート入学試験によるものであったそうです。

2007年4月1日には早稲田大学スポーツ科学部に入学し青森から東京の阿佐ヶ谷に引っ越されています。
早稲田大学入学前「インカレなど大学の試合に出たい」との意向を示し、彼女の入学を受けて関東学連と日本卓球協会は、プロ選手が大学の大会に出場できるように事前に規約改正を行った。しかし同年5月に行われた春季リーグでチームを一部昇格に導くことはできず、それ以降インカレ、リーグ戦に出場することはなかったそうです(翌2008年春リーグから関東学生リーグは1部所属校を6校から8校と増やした。)。

2007年4月3日、全日本空輸(ANA)との所属契約(単年)を発表、同時にグランプリとの4年契約を2年で終了したことを発表しましたた。これについて父親が「大学進学で東京に住むこともあり、環境すべてを見直したかった」と説明した。

2007年5月の第49回世界卓球選手権個人戦では3回戦敗退。大学の試合には2007年春リーグ以外出場しておらず、個人練習での強化に努めておられます。

2007年4月より『とっさの中国語』(NHK教育)にレギュラー出演もされています。
2008年1月、世界ランクが10位と、世界ランクの上位から1カ国・地域2名を上限とし上位20名に与えられる代表資格を獲得し北京五輪日本代表に内定されました。

6月、JOCから日本選手団の開会式旗手に任命されました。これは卓球選手では初であり、最年少でした。本人は会見で「(団旗の)グラムの重さより、日本(代表としての)の重さをすごく感じると思う」と意気込みを話しておられます。五輪では平野早矢香さん、福岡春菜さん、福原さんの3人でシングルス、団体戦に出場されました。



その後よりレベルの高い試合で実戦感覚を養うことを目的として、2009年4月で早稲田大学卓球部での活動を休止し、海外で行われるITTFプロツアーを中心に出場されました。

日本国内ではサンリツ(物流会社)の卓球部の一員として日本リーグに参戦することになりました。
そして、海外ツアーや中国のスーパーリーグ参戦を優先するため、および早稲田大学の単位の取得が困難になったために、2010年3月で早稲田大学を退学し、卓球に専念して2012年のロンドン五輪に臨む意向であることが関係者から明らかになりました。
2008年1月全日本卓球選手権で敗れた後、大学の授業にあまり出席できないこと、また2008年が五輪イヤーでもあることから関係者が福原の休学ないし中退を示唆していたそうです(彼女は入学後も練習を早稲田大学では行わず青森や秋田で練習を続けたておられました。また五輪出場権獲得のために世界ランク高位を維持するため、海外の卓球ツアーに多く出場したため欠席も多かったそうです)。

2011年5月、ロッテルダム世界選手権混合ダブルスにおいて岸川聖也さんとペアを組み、この種目では日本選手34年ぶりの銅メダルを獲得されました。
大会終了後の5月16日付世界ランキングで日本人2番目の9位となり、ロンドンオリンピックシングルス出場権を獲得されます。2011年11月27日にはロンドン五輪と同会場で行われたテスト大会のプロツアー・グランドファイナルで石川佳純さんと女子ダブルスに出場して準優勝を収め、主戦場としてきたシングルス以外に活路を見出し、2012年1月21日、東京体育館で開催された全日本選手権において、決勝戦で石川佳純を4-1で下し、13回目の挑戦にして念願の選手権を獲得されました。

2012年は3月に開催された第51回世界卓球選手権団体戦(ドイツの旗 ドイツ・ドルトムント)に石川佳純さん、平野早矢香さん、藤井寛子さん、石垣優香さんと共に日本代表として出場するも、準々決勝で大韓民国代表にフルセット(2-3)の末に敗れてメダルを逸してしまいました。

7月に開催されたロンドンオリンピック卓球競技では、女子シングルス戦では第5シードとして3回戦から登場し、アンナ・チホミロワさん(ロシア)を4-0と退け、4回戦ではジエ・リーさん(オランダ)に対し、ゲームカウント1-3と追い詰められたが、そこから3ゲームを連取して4-3でオリンピックでは自身初の準々決勝進出を達成されました。準々決勝では世界ランク1位の丁寧さんと対戦して、第1ゲームでは先にゲームポイントを迎えたが、これを取れず、結局0-4で敗れました。
団体戦には平野早矢香さん、石川佳純さんと共に出場。1回戦アメリカ、準々決勝ドイツを破った後の準決勝シンガポール戦では第1戦目でシングルス銅メダリストの馮天薇さんを3-1で破りました。
続く2戦目の石川のシングルス、3戦目の石川・平野ペアのダブルスも日本が勝ち、日本勢オリンピック史上初の決勝進出を果たされます。決勝戦で中国に0-3で敗れ2位となったが、日本卓球史上初となる銀メダルを獲得されました。


ロンドンオリンピック終了後、8月24日に前年夏に故障した右肘滑膜ひだ障害の手術に踏み切られました。また、故障を抱えながら出場した2012年3月の世界選手権(ドイツの旗 ドイツ・ドルトムント)やオリンピックなど、歴戦の疲労も蓄積していたので、手術箇所の治療や疲労回復等を目的に9月から10月は休養を続けられました。11月から練習を再開し、12月6日に杭州で開催されたITTFワールドツアー・グランドファイナルで復帰したが初戦の2回戦で陳夢さん(中国)に敗れます。

2013年には平成24年度天皇杯・皇后杯全日本卓球選手権大会に出場、今大会はヒジ手術からの休養明けを考慮して女子シングルスのみの出場であったが、ブランクを跳ね返す試合運びで勝ち進み、前年同様に石川佳純さんとの対戦になった決勝ではゲームカウント1-2の劣勢から3ゲームを連取する逆転勝ちを収めて2年連続優勝を飾られました。

2013年の第52回世界卓球選手権個人戦では、世界ランク166位の朴晟恵さん(大韓民国)に緒戦で当たり、2-3の逆転負けを喫しておられます。6月の荻村杯ジャパンオープンでは女子シングルス決勝で文玄晶(大韓民国)に4-0で勝利し、日本女子選手として初となる荻村杯優勝を果たした[31]。

2014年の全日本卓球選手権大会女子シングルスにて、準決勝で森さくら(昇陽高)にストレートで敗れた[32]。敗戦後、左第5中足骨の疲労骨折を発症したため、自国開催(日本の旗 日本・東京)の第52回世界卓球選手権団体戦を欠場した。6月13日の韓国オープンから公式戦に復帰する[33]。荻村杯の女子ダブルスでは若宮三紗子とのペアで出場し、決勝で前年の世界選手権銅メダルペアの馮天薇、于梦雨組(シンガポール)を破り優勝。

9月、仁川アジア大会の団体戦決勝で中国と対戦し、チームは敗れて準優勝だったが、自身は第1戦で丁寧から初勝利をあげておられます。

2016年8月のリオデジャネイロオリンピックでは女子最年長で代表に選出されました。シングルスでは準々決勝でシンガポールの馮天薇さんを破り初の準決勝進出。しかし、準決勝では中国の李暁霞さん、3位決定戦では北朝鮮のキム・ソンイさんに敗れシングルスでのメダル獲得を逃した。団体戦では全試合で伊藤美誠さんとダブルスを組み出場。準決勝ドイツ戦ではシングルス3位決定戦を終えた翌日から足に痛みを訴え骨膜炎と診断され、その影響で黒星を重ねてしまい2大会連続の決勝進出を逃してしまったが、3位決定戦のシンガポール戦ではダブルスで1勝を挙げ2大会連続となる銅メダル獲得に貢献されました。

リオデジャネイロオリンピック終了後の2016年9月1日に中華民国の卓球選手:江宏傑氏と国際結婚(入籍)。この件についてリオデジャネイロパラリンピック終了後の9月21日に東京都内で夫妻ツーショット記者会見を開いて正式に発表した。


リオデジャネイロオリンピック以降は選手として公式戦に出場することは一度もなく、2017年1月の全日本卓球選手権大会も欠場されています。

2017年6月29日、第1子妊娠を報告し。同年10月13日、第1子女児(長女)を出産されています。


2018年10月21日、自らのブログを更新して「若手が育ってきたこと、選手ではない違う立場で次のステップへ進みたい」などと語り、現役を引退することを表明されました。

2018年12月5日、第2子妊娠を報告。2019年4月3日、第2子男児(長男)を出産されています。

そして
2020年(令和2年)7月8日 - Tリーグ理事を退任されています。


めぐめぐが思う福原愛さんのすごいところ

1やはり小さいころから本当にずっと卓球にずっと人生をかけてこられたこと。うまく行かない年の後もずっと自分の卓球道を続けられたこと

2日本では幼少期からテレビなどマスメディアに頻繁に登場し、「卓球の愛ちゃん」「天才卓球少女・愛ちゃん」「泣き虫・愛ちゃん」等と呼ばれ、国際大会で活躍するようになってからは中華圏で「小愛」(シャオアイ)や「瓷娃娃」(ツーワーワー)等と呼ばれ親しまれ日本だけでなく世界中で愛されたこと。

3そしてその注目度から、内閣府「災害被害を軽減する国民運動サポーター」、中国等との間の様々な親善大使、出身地である仙台市の観光大使、CM出演など卓球以外でも素晴らしい功績をのこされていること



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