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第10週 金曜日 朝倉響子


10人目の芸術家は彫刻家の朝倉響子さんです。


以下の記述は『日本美術年鑑』平成29年版(544-545頁)を参照しています。


 彫刻家の朝倉響子(本名、朝倉矜子)さんは1925(大正14)年12月9日、彫刻家・朝倉文夫の次女として朝倉矜子として東京にお生まれになります。



お姉さんは日本画家、舞台美術家として活躍した朝倉摂(本名、富沢摂)さんんです。

お父さんの方針により学校へは通わず、義務教育の内容は家庭教師より教わったそうです。

はじめはお姉さんの摂とともに絵を描いておられましたが、彫刻を制作するようになり、1939(昭和14)年には9月に東京府美術館にて開催された第12回朝倉彫塑塾展覧会へ、「習作(第一)」「習作(第二)」「手習作」「手習作(イ)」「手習作(ロ)」の5点を出品されています。

17歳の42年10月第5回新文展に「望」で初入選を果たされ、翌43年の第6回展には「あゆみ」を、46年3月の第1回日展には「慈」を出品されます。

同年10月の第2回日展へ出品した「晨」にて特選を受賞されました。

以後も「萌」(第3回展、1947年)、「作品S」(第6回展、1950年)、「Mlle S.」(第7回展、1951年)で特選を受賞されます。52年の第8回展、57年の第13回展では審査員を務めるも、以後同展への出品はしていないそうです。


新文展や日展への出品作はいずれも女性を題材にしたもので、多くは裸体の立像でした。

また47年の第3回展までは、本名の矜子で出品していました。

54年5月第1回現代日本美術展へ「首」を出品、以後も8回展(1968年)まで毎回出品されます。

また58年4月新聞を配る少年保護育成の会の依頼で約1年をかけて制作した新聞配達の少年像が完成、翌月麻布有栖川宮記念公園に設置されましたた。この像がきっかけとなり、61年には神田錦町の製本業者からの依頼で製本工の像を制作しているそうです。

59年5月第5回日本国際美術展へ「男の顔」を出品、以後9回展(1967年)まで毎回出品されます。

60年春、それまでお父さんのアトリエの一隅を仕切って制作を行っていたが、本郷千駄木町にアトリエを新設されます。

61年10月文藝春秋画廊にて初の個展を開催されます。

この頃には形ではなく、対象の内奥と自身の精神とが混ざり合った「意味」を造形化しなくてはと考えていたそうです。

65年1月朝日新聞社主催の第16回選抜秀作美術展に「ともえさん」(第6回現代日本美術展、1964年)が選抜出品され、同作は翌月文部省買上となりました。

67年11月ギャラリー・キューブにて個展開催、石彫、ブロンズによる作品10余点を出品されます。

なかでも3点のトルソでは形態の単純化、抽象化が見られるようになりました。こうした傾向は70年4月の個展(ギャラリー・ユニバース)でも引き続き見られ、ブロンズによる具象的な人物像と石彫によるトルソという、彫塑と彫刻の両方が試みられたそうです。

また60年代後半頃よりブロンズによる女性像には着衣のものが多く見られるようになり、70年の個展では、「アヤ」「リサ」「ユミ」「マヤ」などの女性名をタイトルにした作品も発表されました。

その一つのナオミはここで見れるそうです。




71年7月第2回現代国際彫刻展に「女」を招待出品されます。

73年9月にはギャラリー・ユニバースで個展を開催、椅子に腰掛け両足をまっすぐに伸ばした着衣の女性像である「WOMAN」をはじめとしたブロンズ作品18点を発表されます。


74年9月第2回現代彫刻20展に「WOMAN」「WOMAN」「FACE・S」を招待出品されます(第3回展、75年にも招待出品)。

そして70年代後半頃より、それまでのデッサンにかわってモデルの写真を撮るようになり、その写真から対象のイメージを引き出し、造形化するという新しい方法での制作を行うようになられます。

78年10月の個展(ギャラリー・ユニバース)では、有名歌手やファッションモデルをモデルに制作した作品を発表されます。

特に79年布施明氏をモデルにした「F(後に「憩う」と改題)」で第7回長野市野外彫刻賞を受賞されます。


80年1月写真家の奈良原一高氏が撮影を担当した写真集『光と波と 朝倉響子彫塑集』(PARCO出版)を刊行されます。

82年、前年の個展で発表した「ニケ(NIKE)」で第13回中原悌二郎賞優秀賞を受賞されます。

85年9月には写真家安斎重男氏の撮影による写真集『KYOKO』(PARCO出版)の刊行を記念して、渋谷のパルコパート3内のスペースパート3にて個展を開催されます。会場には安斎氏の写真もともに展示されました。


この本が今でも買える、すごいと思いました。


さて同会場では88年9月、1993(平成5)年3月にも個展を開いているそうです。2000年9月現代彫刻センターにてまた個展が開催されます。

同年11月には大分県の朝倉文夫記念文化ホールにて、70年代からの作品38点に野外設置作品の大型プリント9枚を加えた回顧展「愛の園生 朝倉文夫記念公園開園10周年記念 朝倉響子展」が開催されました。

03年12月北九州市立美術館にて回顧展「朝倉響子展―ときの中で―」が開催されます。

さらに10年1月上野の森美術館ギャラリーにて個展を開催します。


歿後の2016年5月30日、腸閉塞で死去されました。享年90でした。

同年年9月には、初の父娘三人展である「朝倉文夫 摂 響子 三人展」が朝倉彫塑館にて開催されました。



 野外設置の作品も多く、主なものに「WOMAN」(町田駅北口)、「ふたり」(仙台市・西公園)、「約束の像」(小田急線新宿駅(後に小田急百貨店新宿店内に移設))、「フィオーナとアリアン」(東京・教育の森公園)、「マリとシェリー」(東京芸術劇場)などがあるそうです。


またここにも朝倉響子さんを始めたくさんの彫刻作品が見られます。


めぐめぐが思う朝倉響子さんのすごいところ

1大変優秀な彫刻家のお父さんの指導のもとお姉さんと共に素晴らしい芸術家としてたくさんの作品を残されたこと。
2彫刻の作品をずっと発展させ生涯自分らしさをずっとこだわられたこと。
3様々な要望にこたえて作品を作られ、今もその作品が愛されていること。

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