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第1週第3日水曜日 教育者・学者 津田梅子


津田梅子は歴史上の人物に入ると思いますが、とりあえず日本の教育者のパイオニアですので、まずここで紹介したいと思います。

津田梅子は1864年12月31日生まれ。
生まれたときはむねと書いてうめと読んだそうです。

1902年漢字表記にしたとき梅子と表記するようになったそうです。


うめは東京生まれ。次女で今の新宿区南町に産まれました。

お父さんの津田仙は幕臣で、江戸幕府が崩壊したあと、職を失います。
そして1869年築地のホテルに務めることになりました。そこで家族は向島に引っ越します。
幼少期手習い、踊り、父の農園の手伝いなどをしたそうです。


1871年お父さんは新しい仕事に就きます。北海道開拓使の嘱託の仕事です。家族も麻布に引っ越します。

そして父の上司である開拓使次官の黒田清隆が企画した女子留学生の話を聞き、お父さんはうめを応募させます。

そして最年少の6歳で岩倉使節団に同行します。

アメリカではジョージタウンで日本大使館スタッフのアメリカ人画家のチャールズ・ランマン夫妻の家に預けられます。5人の女子留学生のうちうめ、山川捨松(のち大山捨松)、永井繁子( のち瓜生繁子)の3人が残りました。この2人は生涯ずっとうめを支える大切な友人となります。


うめは12年間最初の留学生活を送ります。うめは教養のあるアメリカ人の教育を受けたことになります。

梅がこの時代学んだのは

1 英語
2 ピアノ
3 キリスト教(やがて洗礼を受けます)

4 ラテン語
5フランス語
6英文学
7自然科学
8心理学
9芸術

です。これはアメリカのリベラルアーツ教育の内容と一致します。


1882年うめは18歳で日本に帰国します。まだ女性が活躍できる場があったのでもなく、
また12年間英語だけの生活で、日本語や日本の習慣に慣れず、友人2人は軍人の家に嫁ぎます。


1883年うめは岩倉使節団で一緒だった伊藤博文と再会し、当時華族の子女を対象に私塾を開設していた 下田歌子を紹介してもらいます。
そしてこの頃父との確執もあって、うめは伊藤家に英語指導及び通訳として住み込むことになります。また同時に下田歌子から日本語を学び、彼女の私塾で英語教師として働くことになります。


1885年から学習院女子部から独立した華族女学校で教師として活動することになりますが、生徒達の上流快適気風に馴染めなかったと言われています。

またこのころ何回か勧められた縁談も断っていて、生涯未婚も誓っています。

そして1888年留学時代の友人アリスベーコンが来日し、彼女に勧められて2度目の留学を決意します。

お父さんの知人の娘の仲介で学費免除の承諾を得て、学校からも2年間の留学の許可が出ました。こうして1889年7月再びアメリカにむかいます。


うめが留学したのはアメリカのフィラデルフィア郊外にある、リベラル・アーツ・カレッジ、セブン・シスターズ (大学)のひとつであるブリンマー大学で、生物学を専攻しました。留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆、この論文はカエル卵の卵割と体軸の方向性について1891年から1892年にかけて実験を行い1892年の春に成果をまとめたものです。

指導教授のモーガンは1893年の春に華族女学校の教師津田うめとの共著論文として5章から構成される論文にまとめましたが、うめの成果は第2章にほぼそのままの形で使用されました。のちモーガン教授はじめ弟子、孫弟子8人がノーベル賞を受賞しています。このような世界トップクラスの研究室で研究をし、その成果が認められていることは津田梅子が一流の研究者であったことを示していると思います。

またそれと並行して教授法に関する研究を行い、これは州立のオズウィゴー師範学校で行ったと言われています。

やがて日本にいた友人のアリスベーコンもアメリカに帰国し、彼女の日本についての研究をまとめる手伝いをする過程で、日本の女子教育に関心が出てきました。

そして友人のアリスベーコンと共に、日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行います。こうして寄付金8000ドルを集め、1891年に「日本婦人米国奨学金制度」を設立し、帰国後、制度を利用して計25人の日本女性がアメリカに留学することになりました。

その奨学金を得て女子教育に関わった女性は
11893年に渡米し1899年にブリンマー大学を卒業、1922(大正11)年に同志社女子高等学校校長となった松田道(1868-1956)
2.恵泉女学園創立者の河井道
3華族女学校教授の鈴木歌
4東京女子師範学校教授の木村文子
5津田塾大学学長の星野あいなどがいます。

この制度で留学した多くが女子教育の指導者となりました。


さてうめは1892年8月に帰国し、再びいくつかの学校で講師を務めます。
1899年高等女学校令、私立学校令が公布されて、女子教育の法整備が整うと1900年に凡ての仕事をやめ、お父さん、友人たちの協力者の助けを得て7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願を東京府知事に提出します。

認可を受けると東京麹町区に開校し、塾長となり、華族平民の別のない女子教育を志向して、一般女子の教育を始めました。

女子英学塾は、それまでの行儀作法の延長の女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となりました。ただしその厳しさから脱落者が多くいたと言われています。

また独自の教育方針をつらぬくため、資金援助は小規模にとどめられ、無報酬で奉仕したり、経営は厳しいものでした。
梅子は塾の草創期に健康を失い、1919年塾経営の基礎が整うと塾長を辞任します。

そして鎌倉の別荘で、長期の闘病後、1929年64歳で死去します。

令和6年(2024年)上半期を目処に執行される予定の紙幣改定に於いて、五千円紙幣に梅子の肖像が使用されることが決まりました。


めぐめぐの思う津田梅子の素晴らしさは以下の通りです。

1小さい頃から親元を離れ12年間もアメリカで過ごしたこと。もちろん大使館スタッフのアメリカ人のおうちと言うことで、アメリカに来る日本人と会うことはあったと思いますが、まさに異国で異国の学校でアジア人として過ごし学校を卒業する。大変な努力です。

2そしてそのリベラルアーツの教育があったからこそ2度目の留学でノーベル生理学受賞者の教授が認める研究を残していること。素晴らしい学者でもありました。

3そして自分がやると決めたらそれを最後まで大切な友人と家族と協力し貫いたこと。
塾を設立してから妥協しなかったという力強さは、小さいころからアメリカで戦ってきたから出来たのだと思います。


2024年以降お札で見る津田梅子の肖像はどんなものなのか。今から気になります。


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