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第20週 漫画家 上田トシコ


20人目の作家・歌人・漫画家のカテゴリーは漫画家の上田トシコさんです。


上田 トシコ(うえだ としこ)さんは1917年8月14日 東京市麻布区笄町(現在の東京都港区西麻布から南青山)にお生まれになりました。


お父さんは南満州鉄道(満鉄)の職員だったそうです。

ですので生後40日で満州ハルビンへ渡り、幼年期を同地で過ごすされます。ハルビンでの子供時代は、のちに本人が書かれた「フイチンさん」同様に日本語と中国語をちゃんぽんで話していたそうです。

1929年、小学校卒業と同時に日本へ帰国されます。

この頃『少女の友』に連載されていた松本かつぢ『ボクちゃん』の躍動感のある絵に魅了され漫画家を志すようになられたそうです。


1935年、お兄さんの友人のつてで松本かつぢ氏を訪問し師事されるようになります。

もっとも実際には土曜日に松本に絵を見せに行きマルかバツかをもらうだけでなにかを教えてくれたわけではなく、それもバツばかりもらっていたそうです。

しかしある日突然上田さんあてに『小学六年生』からカットの依頼が入り、翌年には『少女画報』に『かむろさん』を掲載、その後『東京日日新聞』(現 毎日新聞)に『ブタとクーニャン』を連載されるようになりました。


『ブタとクーニャン』は『フイチンさん』の前身とも言える6コマ漫画で連載は1年続いたが、女性漫画家など考えがたかった当時としては異例のことであったそうです。

連載が1年続いたことから絵で独り立ちすることを決意し、茅葺き画で知られていた知人の向井潤吉の紹介でフランス式のクロッキー研究所に数年参加、2年ほどしてからスイス人コンラッド・メイリ氏の画塾に1年通われました。

しかしクロッキー研究時代の同窓で、漫画家仲間の塩田英二郎氏によって近藤日出造氏に紹介されると、近藤から「君みたいな世間知らずは漫画家には向かない」と言われてショックを受けられたそうです。

1943年、社会勉強のつもりでハルビンに戻り、お父さんの友人の紹介で満鉄に就職されます。

1年目は部長秘書を務め、2年目からは希望していた愛路科にうつり、演芸班や慰問班と一緒に各地の兵隊や開拓団を慰問して回られました。

南満州鉄道の務めは2年半でやめ、その後『満州日日新聞』ハルビン支局に4ヶ月勤めるうちに終戦を迎えた。

終戦後1週間でソ連軍が進駐してきてハルビン市は混乱し、上田は中国人に助けられながらマンションに篭城されます。

その間ビヤホールの看板を漫画で描いたり、タバコを売ったり、ハンカチに絵を入れて売ったりされたそうです。

この頃に漫画の絵が荒廃した人々の心を明るくすることを実感されたそうです。

1946年10月、強制引揚げ令が出たため帰国するが、駅で列車を待っているときにお父さんが八路軍に連行され、1週間後に文化戦犯として処刑されるという経験をされています。

引き揚げ後は炭鉱業界の機関紙記者をしたり、メイリ塾のつてでNHKの民間情報局(CIE) に勤務して展示科でアメリカから送られてきた写真の額縁を塗るなどされています。


またアルバイトで明々社の『少女ロマンス』に挿絵を描き、2年後に同誌が廃刊になるとちょうど集英社の『少女ブック』が創刊され、同誌に『ボクちゃん』の連載を開始(1951年9月 - 1958年12月)されます。

この作品は田河水泡氏のコマ割りや手塚治虫氏の映画的なストーリー展開を参考にしつつ、日本の子供たちにおおらかに生きることを願って描いた作品で上田さんの出世作となったそうです。

この時期、『少女の友』(実業之日本社)、『ひまわり』(ひまわり社)、『少女』(光文社)、『女学生の友』(小学館)などに多くの作品を発表[されます。



1955年9月、『りぼん』創刊号よりヒット作『ぼんこちゃん』を連載(-1961年12月)されます。


1957年1月、『少女クラブ』(講談社)にて『フイチンさん』の連載を開始され1962年3月まで続きます。

これはハルビンを舞台におてんばな中国娘フイチンさんが活躍する物語で上田さんの代表作となりました。



以降、『平凡』誌(平凡出版)で『お初ちゃん』を11年におよぶ長期連載(1958年2月-1969年4月)され、1973年からは『明日の友』(婦人之友社)に『あこバアチャン』の連載を開始し、上田さんの死の前月まで連載が続きました。

作品名に「ちゃん」が含まれる作品が多かったことから、業界で「ちゃんちゃん漫画家」とあだ名されたそうです。

また上田さんは昭和40年代に、業界で非常に少なかった女流漫画家同士で親睦を図り、健康管理のための情報を共有するため、「1ダースの会」の結成を呼びかけられました。

会員は1969年時点では上田さんのほか、牧美也子さん、水野英子さん、わたなべまさこさん、今村洋子さん、細川千栄子さん、水谷たけ子さんがいらっしゃったそうです。

1989年時点では上田さんのほか、矢崎武子さん、牧美也子さん、水野英子さん、わたなべまさこさん、榎そのさん、清浦ちずこさん、亀井三恵子さん、今村洋子さん、花村えい子さん、みつはしちかこさん、里中満智子さんと増えたそうです。

2008年3月7日、心臓麻痺により東京都の自宅にて死去されました。90歳でした。

同年8月26日から11月24日にかけて、杉並アニメーションミュージアムにて追悼展示会が開催されたそうです。

上田さんは以下の賞を受賞されています


1960年 - 第5回小学館児童漫画賞(『フイチンさん』)
1989年 - 日本漫画家協会賞優秀賞(『あこバアチャン』)
1999年 - 著作権法100年記念会より、特別功労者文化賞
2003年 - 日本漫画家協会賞文部科学大臣賞



上田さんの画風は師である松本かつぢ氏によく似た、スタイリッシュで躍動感のある絵だそうです。


この画風の影響を指摘されている漫画家に高野文子さんがいるそうです。

いしかわじゅん氏によれば、高野さんは夫(フリー編集者の秋山協一郎)に『フイチンさん』を教えられてこの作品が気に入り、『ラッキー嬢ちゃんの新しい仕事』(1987年)から大きく画風が変化、『フイチンさん』のそれとよく似た絵柄となったそうです。

また村上もとかさんは2013年3月から2017年3月まで『ビッグコミックオリジナル』(小学館)にて、上田さんの生涯を題材にした伝記漫画『フイチン再見!』を連載されました。


めぐめぐがすごいと思う上田 トシコさんのこと

1漫画家になるまで非常に苦労され、そして社会人を経て

漫画家になられたこと。

2漫画家になられてから女流漫画家同士で親睦を図り、健康管理のための情報を共有するため、「1ダースの会」を作られたこと

3そして死ぬ1か月前まで漫画を描き続けられたこと。



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