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第6週 木曜日 作家 和泉 式部

6人目の作家は百人一首の歌人 和泉式部です

和泉 式部(いずみ しきぶ、天元元年(978年)頃 に生まれたと考えられています。


越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘の間に生まれられました。


はじめ御許丸(おもとまる)と呼ばれ太皇太后宮・昌子内親王付の女童だったらしいと言われています(母が昌子内親王付きの女房であったそうです)
またそれを否定する論もある。

長保元年(999年)頃までに和泉守・橘道貞の妻となり、夫と共に和泉国に入られました。

後の女房名「和泉式部」は夫の任国と父の官名を合わせたものということです。

道貞との婚姻は後に破綻したが、彼との間に儲けた娘・小式部内侍は母譲りの歌才を示しました。
帰京後は道貞と別居状態であったらしく、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との熱愛が世に喧伝されたそうですが、身分違いの恋であるとして親から勘当を受けたそうです。

為尊親王の死後、今度はその同母弟・敦道親王の求愛を受けました。
親王は式部を邸に迎えようとし、正妃(藤原済時の娘)が家出する原因を作ったそうです。
敦その後道親王の召人として一子・永覚を出産しますが、敦道親王は寛弘4年(1007年)に早世しました。
寛弘年間の末(1008年 - 1011年頃)、一条天皇の中宮・藤原彰子に女房として出仕。長和2年(1013年)頃、主人・彰子の父・藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し夫の任国・丹後に下りました。

万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍が死去した折にはまだ生存していたが晩年の動静は不明だそうです!。
娘を亡くした愛傷歌は胸を打つものがある。「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遙かに照らせ 山の端の月」は、性空上人への結縁歌であり、式部の勅撰集(拾遺集)初出歌となりました。そこには仏教への傾倒が見えます。
歌の返しに性空から袈裟をもらい、それを着て命を終えたと言われています。

戒名は誠心院専意法尼だそうです。


和泉式部続集切には
恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評されていたそうです。また同僚女房であった紫式部には「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評されました(『紫式部日記』)。真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌にもっともよく表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多いと言われています。
才能は同時代の大歌人・藤原公任にも賞賛され、赤染衛門と並び称されています。


作品には敦道親王との恋の顛末を記した物語風の日記『和泉式部日記』がありますが、これは彼女本人の作であるかどうかは疑わしいと言われています。



ほかに家集『和泉式部正集』『和泉式部続集』や、秀歌を選りすぐった『宸翰本和泉式部集』が伝存します。『拾遺和歌集』以下、勅撰和歌集に246首の和歌を採られ、死後初の勅撰集である『後拾遺和歌集』では最多入集歌人の名誉を得られています。


イワシが好きだったという説話があるが、その根拠とされる『猿源氏草紙』は室町時代後期の作品であり、すなわち後世の作話と考えられています。

和泉式部は同時代の紫式部から、優れた歌人として評価を受けつつも、多くの男性と浮名を流した好色な女性という風評を踏まえ、人の道を外しているところがあると批判されている。高名な紫式部による和泉式部評は、後世に和泉式部の好色な女性像を広めることに繋がりましたた。この好色なイメージは平安時代の後期になるとより強化されました。

また一方で中世前期から室町時代にかけて、仏教的な説話が和泉式部像に強く反映されるようになります。中世の説話では和泉式部が遊女であると捉えられているものがあり、そのような中で、法華経の教えを踏まえながら、仏教的な救済を求める女性として和泉式部が描かれるようになりました。

近世に入ると、与謝野晶子が「情熱的な」歌人として和泉式部を高く評価し、その評価が定着していったとの説がある。しかし実際には、藤岡作太郎が、与謝野晶子が和泉式部に関する著作を発表する以前に情熱的な歌人として評価しており、また、与謝野晶子による評価も情熱を全面に押し立てるようなものではなく、和泉式部の作品には、多情であるばかりではなく純情、愛欲とともに哀愁、そして奔放でありながら寂寥という相反した感情が詠み込まれていることを指摘したものであったそうです。



岩手県北上市 - 和賀町竪川目に墓所があリます。
付近が出生地あるいは没地と伝えられ、ここが和泉式部伝説の北限とされています。早世した小式部を哀れんだ隣人が五輪塔を建てたという伝説に準えて明治2年に奉建された五輪塔などがあリます。

また福島県石川郡石川町 - この地方を治めた豪族、安田兵衛国康の一子「玉世姫」(たまよひめ)が和泉式部であると言い伝えが残っています。
式部が産湯を浴びた湧水を小和清水(こわしみず)、13でこの地を離れた式部との別れを悲しんだ飼猫「そめ」が啼きながら浸かり病を治したといわれる霊泉が猫啼温泉として現存します。
岐阜県可児郡御嵩町 - 旧中山道の途中に和泉式部の廟所と言われる石碑も存在します。
同地に伝わる伝承によると晩年は東海道を下る旅に出て、寛仁3年(1019年)にここで病を得て歿したとされている。碑には「一人さへ 渡れば沈む 浮橋に あとなる人は しばしとどまれ」という一首が刻まれています。
また愛知県豊川市小坂井町平口 - 報恩寺境内に和泉式部の墓との伝承がある和泉式部供養塔があリます。
また三重県四日市市曽井町 - 「和泉式部化粧の水」があり、和泉式部がここで顔を洗ったら顔のあざが消えたと言われています。

他にも以下の伝承があります。


大阪府堺市西区平岡町 - 居宅跡である「和泉式部宮」がある[
大阪府岸和田市 - 阪和線下松駅周辺の大阪府道30号大阪和泉泉南線沿いには和泉式部にまつわる池、塚などが存在する。
兵庫県伊丹市に和泉式部の墓所がある。
京都府京都市右京区太秦 - 太秦和泉式部町という地名がある。
京都府亀岡市 - 称名寺に和泉式部の墓所があると伝えられる。
山口県山陽小野田市 - 和泉式部の墓所がある。
佐賀県白石町/嬉野市 - 白石町の福泉禅寺で生誕し、嬉野市の大黒丸夫婦に育てられたとされる言い伝えがある。寺には故郷を偲んで詠んだとされる和歌の他にも掛け軸が伝わっており、境内には歌碑と供養塔が建立されている。
長野県温泉寺 (諏訪市) 和泉式部の墓がある。下諏訪宿が、和泉式部の出身地という説がある。


  しかしこれらの逸話や墓所と伝わるものは全国各地に存在するが、いずれも伝承の域を出ないものも多いそうです。

民俗学者の柳田國男は、このような伝承が各地に存在する理由を「これは式部の伝説を語り物にして歩く京都誓願寺に所属する女性たちが、中世に諸国をくまなくめぐったからである」と述べているそうです。


めぐめぐが思う和泉式部のすごいところ


1たくさん色々辛い人生の中で愛に生き最後仏教の信仰に至ったこと。

2たくさんの伝承が日本中にあり現在まで残っているところ。

3昔から以上の点でたくさんのファンがいて彼らがその史跡を求めて旅行したこと。それが本当に才能があり愛に生きたからなのだと思います。

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