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第19週 水曜日 教育者・学者 大江スミ

第19週の教育者・学者は東京家政学院(現・東京家政学院大学)創立者で、日本における家政学の先駆者である大江 スミです。

大江 スミ(おおえ すみ)は1875年(明治8年)9月7日、宮川盛太郎とカネの二女として長崎県十善寺(現在の長崎市)に生まれました。

お父さんの盛太郎氏は若くしてグラバー商会を設立したトーマス・ブレーグ・グラバーに仕えました。グラバーは、幕末の激動期に新しい日本を創ろうと若い情熱を抱く坂本龍馬やその仲間の志士たちを陰で支えた人物でした。

若き盛太郎氏も進取の気風のみなぎるグラバー商会の空気にふれ、新しい国づくりと自分の人生への夢を育てた一人だったそうです。

後にグラバーは、岩崎弥太郎氏が経営する三菱造船会社の顧問となり、上京します。盛太郎氏も彼のあとを追って上京し、はじめはグラバーの口利きで海軍省の職を得、のちに大隈重信氏の縁故で宮内省大膳職に転職します。

こうして1880年(明治13年)お父さんの盛太郎氏が宮内省大膳職へ転じたことにより、一家は長崎より上京し、芝の栄町(現在の港区芝公園三丁目)に家を構えることになりました。スミさんは芝鞆絵小学校に入学します。
1889年(明治22年)東洋英和女学校に入学されます。

スミさんには生まれた時から左耳のわきに黒いしみがありましたが、それが成長するにつれ左目のまわりに大きく広がり、大きなあざとなりました。当時の日本社会では、こうした容姿のハンディキャップは、女性が結婚するうえで大きなマイナスになると考えられていました。そのため、両親は「スミにはどこまでも学問をさせて、将来自活のできるようにしてやらねば」と考え、名門の東洋英和女学校に入学させたそうです。

入学と同時に寄宿舎に入ったスミは、日常的にキリスト教の教えにふれるなかで、大きな精神的な変化を経験されました。

顔のあざのせいで自分は「不器量者」という劣等感に苦しんできたスミは、神の前で人間は平等であるという信念のもとに分け隔てなく接してくれる教師たちに、しだいに心を開かれました。

また、「神様は(治すことの出来ない人の外形ではなく)、進歩させることのできる心を見てくださるのだから」という教えにふれ、スミは自分の前途にひとすじの希望を抱くようになったそうです。


このように東洋英和女学校での生活の影響は大きく、のちに朝礼や年中行事を東京家政学院に導入しています。

1894年東洋英和女学校を卒業され、翌年東洋英和女学校教員となられます。

そこで数学を教えられました。


1897年退職して1897年(明治30年)女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に入学、1901年(明治34年)に卒業されました。)卒業と同時にスミさんは沖縄に赴任し、沖縄高等師範学校の教諭、沖縄県高等女学校教員の嘱託教師になられました。スミはむしろ自らの信念・信仰を鍛えるよいチャンスととらえ、奉仕的人生の出発点として進んで沖縄に赴任されたそうです。

当時の沖縄では、内地から来た人が沖縄人にむかって威張る傾向があったそうでしたが、スミさんは人間的な偏見や差別意識から自由に生徒と向き合われました。

沖縄の女学生たちは親しみを抱き、のちになっても、スミと共に英語や聖書を学んだ楽しい思い出を語り継いだそうです。


1902年退職され、文部省の命により家政研究の視察のためスミさんは4年間英国へ留学します。

ロンドンの大学に目指す学科がなかったので、家政師範科のある専門学校バケィシー・ポリテクニック(工芸学校)家政科に入学されました。

当時のイギリスにおける家政学とは、家事の実際的知識が中心でした。スミさんは留学の大半をバケィシー・ポリテクニックでの研修に費やし、家事に関わる実践的な技術を身につけられました。

さらに、日露戦争で留学が一年間延びたことを利用して、ベットフォード・カレッジ衛生科に入学し、社会衛生学をマスターして同カレッジを卒業しました。この時、衛生検査員の資格も取得されています。

ベットフォードでの勉学は、スミにとって、狭い実用としての家事技術の習得に限られていた家政学を、広い社会的視点から見直す契機となったそうです。そこから、スミは家政学が単なる家事上の実用的技術に終らず、社会の基礎単位である家庭生活の質を高めることによって、社会生活それ自体を豊かにする学問であるとの確信を得られました。

また休暇を利用し、イギリス国内の大学、師範学校に加え幼稚園まで幅広く教育機関を見学し、オランダ、ベルギー、ドイツなどにも足を延ばし、ヨーロッパ各地の調査旅行を精力的に行なわれました。

各国の女性たちの社会活動、とくに働く女性の生活と子どもの養育に目を向け、女子教育の重要性と家政学がはたすべき課題についての認識を新たにしたそうです。

1906年(明治39年)に帰国されます。
翌年1907年(明治40年)女子師範学校教諭兼女子高等師範学校(1908年に東京女子高等師範学校と改称)教授となられます。

女子師範学校教諭は1909年まで兼務されていました。

1910年(明治43年)著書『家事実習教科書』(元元堂書房)を刊行します。
1911年(明治44年)著書『三ぼう主義』(宝文館)を刊行します。
1915年(大正4年)近衛師団経理部長の大江玄寿氏と結婚され、大江姓となられます。
1916年(大正5年)著書『応用家事講義』(宝文館)を刊行します。
1917年(大正6年)著書『応用家事教科書』(宝文館)を刊行します。

この頃安井てつさん等と共に雑誌新女界に記事を多く書かれています。



1921年(大正10年)夫の大江玄寿氏が死去されます(享年62)。


1923年(大正12年)東京市牛込区市ヶ谷富久町の自宅に家政研究所を開設されます。

スミさんが留学で学んだこと、すなわち、ヨーロッパ諸国の女性たちの生活や文化を自ら経験することを通して、広く社会的視点からとらえる科学としての家政学こそが、さまざまな生活課題を発見し、解決していく、いいかえれば人びとの「しあわせ」につながる学問をあとにつづく若い女性世代に伝えることを目的とした研究所の設立でした。


1925年(大正14年)東京家政学院を開設され東京家政学院校長に就任されます。

その際東京女子高等師範学校を退官されています。東京家政学院を開設の際

教育の理想としてKnowledge(知識を深める)、Virtue(徳性を養う)、Art(技術を磨く)の頭文字を取りKVA理念を説かれました。

これは具体的には広く社会の動きをとらえる「知識」(knowledge)、その知識を実際の生活に生かすことのできる「技術」(Art)、知識や技術を人びとの「しあわせ」のために使う「徳性」(Virtue)ということを目指した教育が行われるということです。

スミさんは常にユーモアに満ち、感性と比喩に長けていたことが知られていたそうです。

たとえば教育実習に出る学生には「『つもり教育』『はず料理』はいけませんよ!」と教え、「ベターは駄目、ベストを心がけましょう」「謙虚さは美徳」「『だって、けれど』はいけません」「耳だこ教育は母の役です」など数多くの逸話がが伝わっているそうです。

またスミさんは家政学の地位を「三ぼう主義」(女房、説法、鉄砲)という概念をもって説明しました。

「女房」は家庭の中心で家を治めるもの、「説法」は宗教(キリスト教)であり、個人の心を治めるためにも家庭や社会にとっても正義を実行するために重要なもの、「鉄砲」は戦争のためではなく平和を保つために必要なものという論理を展開されました。

1940年東京オリンピック(大戦で中止)の開催が決まった直後の1936年12月、家政学院の学友会誌に「改むべき事ども」を寄稿し、煙草の吸い殻などゴミのポイ捨てをやめ、トイレは男女別々にして、外国人に親切にすべきことを訴えたことも伝えられています。

1937年(昭和13年)勲四等瑞宝章を受章されます。
1938年(昭和14年)著書『礼儀作法全集』(中央公論社)を刊行されます。
1939年(昭和15年)藍綬褒章を受章されています。
1941年(昭和16年)共著書『女子礼法』(光生館)を刊行されています。

第二次世界大戦中は女子学生に軍事教練を試みるなど軍国主義的な行動のためか、戦後は女子教育界からは外されました。しかし亡くなるまでの生涯を女子教育の振興に捧げられ1948年(昭和23年)1月6日死去されています(享年74でした。

以下の家政学院のサイトではスミさんの写真等も見ることが出来ます。


めぐめぐがすごいと思う大江スミさんのこと

1自分のコンプレックスを乗り越え、自分に自信を持たれて

素晴らしい人生を歩まれたこと。

2自由で偏見のないあり方が多くの教え子に愛されたこと。

3イギリスで学んだことを後進に伝えるために献身されたこと。

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