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第30週 芸術家 中島みゆき


はじめに

第30週目の芸術家はシンガーソングライターとラジオパーソナリティーの中島みゆきさんです。

お生まれ


中島 みゆき(なかじま みゆき)、本名:中島 美雪(読みは同じ)さんは1952年2月23日 -北海道札幌市にお生まれになりました。

お祖父様は帯広市議会議長なども務めた中島武市氏,お父様眞一郎氏は北海道帝国大学医学部出身の産婦人科医で中島産婦人科院長でいらっしゃるそうです。

幼年期 


美雪さんは5歳の時に岩内に引っ越され、11歳までを岩内で過ごされます。

その後帯広に移り、市立帯広小学校を卒業され、市立帯広第三中学校に入学されます

1966年の夏には体調不良のお母さんが実家で一時療養するのに合わせて山形市に移られ、市立第六中学校に通われますが、高校受験のため4ヶ月で帯広に戻られます。

その後、帯広柏葉高校を経て、藤女子大学文学部国文学科を卒業されます。

音楽活動のはじめ

帯広柏葉高校3年生の時、美雪さんは文化祭(第20回柏葉祭・1969年9月1日)で初めてステージを踏まれます。この時歌ったオリジナル曲は、「鶫の唄」だそうです。


大学時代は、放送研究会に所属し、ローカルラジオ局でスタッフのバイトなどをされます

北海道大学フォークソングのメンバーと交流を持ち、活発に音楽活動を展開し、「コンテスト荒らし」の異名をとったそうです。



「フォーク音楽祭札幌予選」では「私の窓から」を歌っておられるそうです。
1972年には「フォーク音楽祭全国大会」に出場し、「あたし時々おもうの」で入賞している。この時の音源は大会実況版としてLP化されているそうです。

後年、コンテストに出場したのは交通費や弁当代が支給されるので、バイト代わりであったと述べておられるそうです。

大学卒業後

大学卒業後は帯広に帰り、家業を手伝うかたわら、アマチュア活動を続けられます。
ジャズ喫茶オーディオのマスター、渡辺晃氏が主催した「自由集団」の企画で多くのステージに出られたそうです。


デビュー前に地元では既に多くのファンを獲得しておられた美雪さんにはオリジナル曲は既に100曲以上存在していたそうですが、それらの一部は現在でも音源化はされていないそうです。

デビュー 


1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催による「第9回ポピュラーソング・コンテストに「傷ついた翼」が入賞し9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオン・レコードからレコード・デビューを果たされます。

1975年10月の「第10回ポピュラーソング・コンテスト」に「傷ついた翼」から急遽差し替えた「時代」によってグランプリを受賞し、11月の第6回世界歌謡祭でもグランプリを受賞されました。

「時代」は12月に2作目のシングルとして発売されます。

これをきっかけにミュージシャンとしての実力をヤマハミュージックの川上源一氏に見出されます。

 その後美雪さんは川上氏を現在に至るまで師父のように仰いでおり、中島のアルバムには、今日に至るまで、スタッフが記載されたクレジットに「DAD 川上源一」と記載されているそうです。

ヤマハ育ちでも、ヒットが出ると離れていくミュージシャンが多い中で、中島みゆきさんははヤマハをそのまま自分の拠点としている数少ないミュージシャンだそうです。

1976年4月、ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』を発表されます。

その後現在まで、1年につきアルバム約1枚のペースでコンスタントに作品を発表し続けておられます。

同年には研ナオコさんに提供したシングル「LA-LA-LA」と「あばよ」が大ヒット、ソングライターとしての名を世間に知られました。

同年大晦日『第27回NHK紅白歌合戦』で研ナオコさんが「LA-LA-LA」で出場、一挙に認知度が広がりました。


翌1977年には歌手としても「わかれうた」が70万枚を超えるセールスを記録し、ミュージシャンとしての地位を確固たるものにされています。


作詞家・作曲家としても、研ナオコさんに提供した「かもめはかもめ」をはじめ、桜田淳子さんの「しあわせ芝居」、増田けい子さんの「すずめ」など数多くのヒット曲を世に送り出し、大きな成功を収めておられます。





中島みゆきさんは出演番組が少ないことで有名です。その一つは1977年から放送された『コッキーポップ』だそうです。

その中で披露された「時代」では第6回世界歌謡祭グランプリ受賞の様子がインサートされ、「この空を飛べたら」においては加藤登紀子さんと共演しておられるそうです。

歌手としてのブレイク曲「わかれうた」が収録されていた1978年発表の4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』には「世情」という楽曲が収められています。

この曲は後年にTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の劇中に使用されて大きな話題を呼び、シングル・カットされなかったにもかかわらず中島の初期の代表曲の一つとなったそうです。

『親愛なる者へ』以降、1985年発表のアルバム『miss M.』までの8枚のスタジオ録音アルバムは連続でオリコンのアルバムチャートで1位を獲得しています。

また1977年発表のアルバム『あ・り・が・と・う』から1996年発表のアルバム『パラダイス・カフェ』までの22枚のスタジオ収録アルバムは連続で同チャートで10位以内を獲得しておられるそうです。

1980年代の活躍


1979年、ニッポン放送『中島みゆきのオールナイトニッポン』(月曜1部)がスタートし、番組においての軽妙な語り口がリスナーの間で大きな人気を集めました。

1980年代前半にはミュージシャンとしてさらに大きな人気を集めており、1981年のシングル「悪女」はオリコンのシングルチャートで自身2度目の1位を獲得し、1982年の年間チャートでも6位を記録、この曲のアルバム・バージョンが収録された1982年発表のアルバム『寒水魚』が同年のオリコンの年間アルバムチャートで1位を記録するなど、1981年から1982年にかけてはその人気はピークに達したそうです。

1983年には柏原芳恵さんに提供した「春なのに」が大ヒットし、第25回日本レコード大賞の作曲賞を受賞します。



以降アルバム・セールスは下降線を辿り、1980年代中期から後期にかけてはサウンド・アプローチや作風そのものについてもひたすら模索する時代が続いたそうです。

甲斐バンドの甲斐よしひろ氏やクリスタルキングなどをプロデューサーに迎えてアルバムを制作したり、テッド・ジェンセンやラリー・アレキサンダーなどによるニューヨークでのミキシングなどに臨んでおられます。

1985年発表のシングル「つめたい別れ」ではスティーヴィー・ワンダーの吹くハーモニカを大々的にフィーチャーしている。

中島みゆきさんは後年になってこの模索に励んだ1980年代中期を振り返り、「御乱心の時代」と称しておられるそうです。

自らのレコード・セールスが伸び悩む一方で、職業作家としては工藤静香さんの「MUGO・ん…色っぽい」、「黄砂に吹かれて」などの作詞を担当されました。


「御乱心の時代」は、1988年のアルバム『グッバイガール』のプロデュースを手がけた瀬尾一三氏氏との出会いによって収まることになったそうです。

中島みゆきさんにとって「これまで自分がやってきたあらゆるスタイルに対処してくれる」という瀬尾氏とある意味運命の出会いを果たされ、瀬尾氏は現在に至るまでの全てのオリジナルアルバムでアレンジ、プロデュース、演奏に携わっているそうです。

1989年からは、瀬尾氏が音楽監督として名を連ねる演劇とコンサートを融合した舞台「夜会」(やかい)をBunkamuraシアターコクーンで毎年12月に上演するようになられました。

「夜会」は中島みゆきさんにとってのライフワークともいえる舞台となり、1998年に一旦、年一回の公演という形を終了して、その後は不定期で上演されているそうです。

1990年代のご活躍


1990年代の日本の音楽業界では、テレビドラマやCMとのタイアップによってミリオンセラーを記録するシングルが後を絶えない時代でした。

中島みゆきさんも例に漏れず、ドラマ『親愛なる者へ』の主題歌「浅い眠り」をはじめとする3枚のミリオンヒットを記録している。

なかでも安達祐実さん主演の日本テレビ系列『家なき子』の主題歌として書き下ろされた1994年の「空と君のあいだに」は147万枚のセールスを記録しました。



1983年発表のアルバム『予感』収録曲「ファイト!」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、中島にとっての最大級のベストセラーとなりました。


この時期のアルバムはシングルほど芳しい成果を上げるわけではなかったものの、1980年代後半よりも安定した成績を収めたそうです。

『EAST ASIA』から『パラダイス・カフェ』までの5作は全て20万枚以上のセールスとなっている。

1996年にはベストアルバム『大吟醸』がオリコンのアルバムチャートで1位を獲得し、日本における女性ソロアーティストのアルバムチャート1位獲得の当時の最高齢記録を更新されました。

1989年から始めた舞台「夜会」に自身がかけるウェートはより大きくなり、1995年以降に上演されたものは書き下ろしの新曲を中心に構成され、より大掛かりなものへと変貌を遂げた。


1999年には文部科学省の国語審議会委員を務めておられます。

この審議会の委員を務めた歌手は中島みゆきさんだけだそうです。


2000年代以降 のご活躍


2000年には25年にわたって在籍したポニーキャニオンを離れ、当時創設されたばかりで自らが取締役・主要株主として経営にも参画するミニ・メジャーのレコード会社・ヤマハミュージックコミュニケーションズに移籍されます。

以降現在に至るまでヤマハから作品を発表している。

移籍後最初にリリースされた中島みゆきさんnのシングルが、NHKのテレビ番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の主題歌「地上の星/ヘッドライト・テールライト」です。



中島みゆきさんの作品にこれまで馴染みの薄かった中高年層のサラリーマンを中心に大きな人気を集め、最終的にオリコンのウィークリーシングルチャートTOP100に連続174週にわたってランクインするという驚異的な記録を打ち立てました

発売当初は話題にならなかったが、『プロジェクトX』の人気が高まるとともに注目され、アルバム『短篇集』には、1曲目が「地上の星」、ラストが「ヘッドライト・テールライト」という構成で収録された。このアルバムの発売にあたっては、ジャケットの仕様をめぐり岩波書店からクレームがつき、発売直前になって急遽デザインが差し替えられるというハプニングも起こったそうです。

このロングヒットをきっかけに中島は2002年の第53回NHK紅白歌合戦に出場。『プロジェクトX』内でもとりあげられた黒部ダム(黒部川第四発電所)からの中継で「地上の星」を歌われました。

このときに初めて「動く中島みゆき」を見た人も多く、番組中最高の歌手別視聴率(52.8%:ビデオリサーチ調べ/関東地区)を記録しました。(私も

見た記憶があります)

極寒の中で極度の緊張から2番の歌詞を間違えたにもかかわらず反響は大きく、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は翌年1月、発売から2年半近くを経てシングルチャートナンバーワンに輝いたそうです。

これはオリコン始まって以来のリリース後最長期間(130週)を経た1位獲得記録である。同時に、1970年代 - 2000年代まで4年代連続の1位獲得となった。

2005年12月28日には『プロジェクトX』の最終回に出演され、スタジオで同番組エンディングテーマ「ヘッドライト・テールライト」を熱唱されます。

その影響で2006年1月16日、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は、2004年2月2日以来のオリコンシングルチャート100位圏内返り咲き(66位)を達成され、通算オリコンシングルチャート100位圏内チャートイン記録を183週に延ばされました。

1998年に一旦休止した「夜会」は2000年から再び不定期で行われるようになり、2006年の「Vol.14 24時着00時発」は、東京においてはこれまでのシアターコクーンではなく青山劇場で、大阪では初めてシアターBRAVA!において上演されたそうです。

2006年、中島みゆきさんは第56回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞されますた。

これは「コンサートツアー2005」が評価されてのことで、シンガーソングライターとしては初の受賞者になったそうです。

同年には、TOKIOに提供した「宙船(そらふね)」の作詞が評価され、第48回日本レコード大賞の作詩賞を受賞した。



2007年8月から新設のヤマハミュージックアーティスト(現:ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)がマネジメントを行うようになります。

秋には2年ぶりの全国ツアー「コンサートツアー2007」が行われまhした。

2009年11月3日、紫綬褒章を受章されます。中島みゆきさんは受章に際して、

「 思いがけずうれしいことの表現に『棚からボタ餅』と申しますが、今の私の気持ちは『棚から本マグロ』くらいの驚きでございます。ふつう、何かを頂けそうな場合には2度くらいは辞退して、それでもとおっしゃるならちょうだいするのがマナーなのでございましょうが、褒章となりますと『ふつう』ではないことですので、辞退なんかしたら二度とこんな機会はないかもと思いまして、即座に『いただきます!』と、お返事してしまいました。 」

とコメントされたそうです。

2010年10月から2011年1月まで3年ぶりの全国ツアー「中島みゆきTOUR2010」が27公演9会場で行われた。このツアーから各公演の様子を伝えるTwitterを開始されます。

2012年10月から2013年2月まで全国ツアー「中島みゆき縁会2012〜3」が27公演12会場で行われました。

また、2013年11月から12月まで「夜会工場」と称するガラコンサートを開催されました。

2014年9月よりNHK連続テレビ小説『マッサン』の主題歌として「麦の唄」が使用され、同年12月31日の第65回NHK紅白歌合戦にも出場し、同曲を歌った。中島にとっては2002年以来12年ぶり、2回目の紅白歌合戦出場となりました。


最近では新しいDVDが昨年年末に発売されています。




中島みゆきさんの歌



中島みゆきさんの曲には、日常風景の一部を切り取り、そこを行き来する男と女や働く人々をテーマにし、その一人一人にスポットライトを当て、その心情を曲にのせるものが多いそうです

非常に巧みな比喩表現を用いており、聞き手によってそれぞれ異なった意味を受け取ることができます。

普遍的なテーマを歌詞にしていることも非常に多いそうです。

例えば、1991年発売のアルバム『歌でしか言えない』収録曲の「永久欠番」。この曲は、「人は誰しも唯一無二の存在である」ということをテーマにした曲で、東京書籍発行の中学校用の教科書『新しい国語3』に引用されています。


また対照的に、工藤静香さんに提供した「MUGO・ん…色っぽい」や西田ひかるに提供した「きっと愛がある」のように軽いノリの詞も存在する。

ただし、この2曲に関しては、いずれもCMのキャッチコピーにひっかける方が望ましいと中島みゆきさんが指示を受けていた経緯があるそうです。


中島みゆきさんは大学の卒業論文では谷川俊太郎を論じており、現代詩からの影響が濃いそうです。

また、中島みゆき自身の歌詞が現代詩の一つとして扱われ名詩選に収録されていることもあります。


海外における知名度


MTVチャイニーズのホームページ内「音楽評論家のアフターヌーンティー」コーナーには「中島みゆきの創作力は、広く認められている。彼女の作品は、常に香港や台湾の歌手にカバーされ、日本のみならず、アジア全域に中島みゆきの音楽が行き渡ったと言っても過言ではない」と書かれている。

膨大な数のカバー曲や、日本音楽業界との密接な関わりにより、中島のニュースは時々台湾の新聞でも見かけられる。

『中国時報』、『聯合報』の両新聞社の情報バンクだけを取り上げても、ここ十年間における中島に関する報道は、年間20件 - 30件ある。

台湾の詩人曾淑美さんは、文学雜誌で中島みゆきさんに関する評論を載せ、香港の評論家湯禎兆氏も蘋果日報に「中島みゆきの名にちなむ」という文章で中島を紹介しておられます。

作家劉黎兒氏も中島みゆきの長年のファンとして知られ、自身の作品の中に、幾度も中島のことや歌を書き上げたことがあるそうです。


そして外国人が使う日本語の教科書にも中島みゆきさんの名前が出てきます。


めぐめぐがすごいと思う中島みゆきさんのこと

1小さい頃から多くの舞台を経験されて、歌手として大成されたこと。

2自分の歌だけでなく多くの歌手に楽曲を提供され、その歌の多くが大ヒットになっていること。

3日本だけでなく、世界中で愛される日本を代表する歌手であられること。


それにしても若い頃の研ナオコさん、桜田淳子さん、工藤静香さん皆さん本当に綺麗です。


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