「障害者は頑張っている」という感情から抜け出せない私たち

親切という言葉は、「相手の身になって、その人のためになにかをすること。思いやりを持って人のためにつくすこと。また、そのさま。(goo辞書より引用)」という意味らしい。

車椅子を使用して生活している私は、親切に囲まれて生きている。

毎朝決まった時間の電車の乗降介助をしてくれる駅員さん、コンビニで私の会計を手伝ってくれる店員さん、言葉は交わさずとも、見守ってくれる地域の方々。

おそらく、挙げればきりがない程、私は多くの人の親切に助けられて生きている。

そのことはとてもありがたいことだし、無ければ生活が難しくなることもあるかもしれない。だから私は、声をかけていただいた人に対して、なるべくにこやかに接することにしているし、慣れてくれば世間話をすることもある。

私自身、人と接することは嫌いではないし、普段から話しておく方がなにかとものごとがスムーズに進むことも多いからだ。

けれど、親切が、時々心に重くのしかかってくるように感じることがある。

それは、自分自身が疲れている時や、自分の意志や考えと離れた行動をされてしまったり、見聞きした時だ。

こう書くと、とても自分勝手だと思われるかもしれないが、少し想像してみてほしい。

駅で知らない人に、突然話しかけられて、「なんで車椅子なの?」とか、生まれつきだと聞けば、「そう、大変ねぇ・・・。頑張ってね!」となぜか応援されたり、毎朝すれ違う自転車のおじさんに「今日も頑張ってね!頑張らないとおじさん怒るぞ(笑)」と言われたりするのである(この発言については、なぜ名も知らぬ接点のないおじさんに私が怒られないといけないのか今でも謎である(笑))。

話しかけている側の人からしたら、私はいつもすれ違う”頑張っているように見える”障害者なのかもしれないし、元気づけようと思って声をかけているのかもしれない。でも実際には、仕事帰りには疲れて何も考えずに歩いている(車椅子に乗っている)し、朝は仕事めんどくさいなぁと思いながら歩いている。そしてそもそも声をかけてくれる人たちは車椅子に乗っているため目に留まりやすい私を見知ったつもりでいるけれども、私は彼らのことをさして気にも留めずに生活している。だから、私は時々見張られているような感覚を覚えることがある。実際、仕事のお休みを取った翌日、駅ですれ違う近所の人に、「昨日いなかったけど、体調でも悪かったの?」と聞かれたこともある。私だってあなたと同じように休暇を取って会社に行かないことだってあるよ、と心の中で思いながら、「昨日はちょっと私用で休暇をいただいていて」と答える。少し窮屈に感じながら。

今の私の話は、私自身が疲れている時の話だったけれど、本当に困ったこともある。

いつも行っている障害者のイベントの団体で、納涼船に乗った時のことだ。

その納涼船にはダンスフロアのようなところがあって、そこに私を含めた車椅子のメンバーが行った時、一人の女性が私たちのためにフロアを空けるよう、周りの人に声掛けをしてくれたのである。みんな快く応じてくれて、私たちはフロアで楽しくリズムに乗っていた。

ここまでは良かった。

だがそのあと、この女性は私の手を取り、上下左右にふってリズムを取ったり、顔の前で手拍子を打ってみたりということをしたのである。おそらく、この女性は私を楽しませようとしたのだろう。もっと重い障害の人だと思って、良かれと思ってやってくれたのだ。けれど、私は困ってしまった。どんな顔をしていいのかもわからないし、そもそも私は自分でリズムに乗れるのだ。

でも、この人たちにとって、これらの行動は善意なのである。私がどれだけ見張られていると思ったり、窮屈に感じたり困ったりしようとも、彼らにとっては親切のつもりなのだ。

冒頭書いたように、親切は「思いやりを持って人のためにつくすこと」の意味を持つ。

けれど同時に、「相手の身になって、その人のためになにかをすること」という意味も持つのだ。

私が持つ経験のように、誰かの親切のつもりの行動が親切を受けた側にとって、負担となるものであったり、もっと言えば大きなお世話だった場合に、それは親切として成り立つのだろうか。相手が親切としてやってくれたのだから、と受け取った側がある種の諦めを抱かなければならないのだろうか。

このことについて、最近私は疑問に思うことが多くなってきたと感じている。

そうは言ってもやってもらったのだから、助かる人もいるのだから、と言う人もいるけれど、やっていることが受け手にとって、必ずいいこととは限らない。ものごとを行った側と受け取る側の考えが一致しなければ、親切は親切として成り立たないのではないのだろうか。

やらない善よりやる偽善、とよく言うけれど、考えが一致しない親切は誰かを傷つける。

夏になると行われるチャリティ番組がある。一晩で何億もの募金が集まり、多くの人がテレビに出演する障害者を見て、頑張っている、と感動して涙を流す。

この番組によって、確かに助けられる人がいる。番組に出演する人たちは貴重な経験が出来るのだろうし、募金は福祉施設などに分配される。その人たちにとって、それは親切なことなのだろう。

でも、感動されたり、募金が何億も集まったとしても、なぜか世の中はちっとも変わっていかないのだ。どこかに行くときに車椅子が入れるかどうか確認する日常も、乗り換えの手配の時間を加味して早く行動する日常も変わらない。障害の症状に対して、無理解な言動を見聞きすることもある。

そんな不便さがあるから、私は、あの番組で言うところの、もしくはたまにもらう声かけの、「頑張っている」障害者にしかなれない。私は身体が不自由ではあるし不便ではあるけれど、普通に生活を送っているにも関わらず。

そして、今の私の普通と呼ばれる生活や、社会の普通は障害者が「頑張っているように見える」社会であるにも関わらず、なにも変わっていかない。私たちのような生きづらさを持つ人が「必要以上に頑張らず、健常の人と同じように生きていける」社会に変わってはいない。

困っている人には親切にしましょうと言うけれど、その人が何に困っているのか、ちゃんと読み取る、もしくは伝えることが出来なければ、その親切は意味のないものになってしまう。

例えば、私は手に麻痺がありナイフとフォークを両手で同時に使うことが難しいため、いつもステーキのレストランに行って頼む時には、注文のときにカットをお願いする。

ところがある時、いつも行っているレストランでの友人との食事の際、友人とメニューを決めることや、おしゃべりに夢中になって、お願いするはずのカットのオーダーを忘れてしまったことがあった。

しばらくしてそのことに気づいた私は、少し焦り気味で店員さんを呼び止めてカットをお願いしたのだけれど、その店員さんからは驚きの返事が返ってきた。

「いつもどおりに頼んでありますよ、大丈夫です。安心してください。」

確かにそのレストランはバリアフリー対応も良く、駅からのアクセスも良いため、よく利用している。だから店員さんとも顔なじみではあるのだけれど、とても嬉しかった。

メニューはあくまでカットされていないままの状態で提供されるもので、カットのサービスは無料ではあるものの、お店としてはオプションである。そして、オプションである、ということは提供する義務があるわけではない。

でも、その店員さんは私がいつもそう頼むことを覚えていて、私が頼まずとも、私が快適に食事を出来る方法で提供してくれたのだ。

こんな風に、私がいつもやっていることを考えて手助けしてもらえるというのは、とても嬉しいし、とても助かる。

このお店で経験したように、お互いが心地よく過ごしていくために必要な「親切」には、相手の立場に本当の意味で立つことが必要だけれど、そのためになにが必要なのか、私はまだ答えが出ていない。

一番簡単な言葉で言えば想像力とか、経験なのかもしれないけれど、それらを本当に相手のために働かせることのできるなにか、がまだ必要だと思っている。

だって、私が少し困る親切をしてくれる人も、助かる親切をしてくれるレストランの店員さんも、それぞれの想像力や経験から、私が大変だろうと思って親切にしてくれるのは変わりないのだから。

この答えが出る頃には、もう少し社会が生きやすいものになっていて欲しい、と思う反面、この答えが出なければ、生きやすい社会になんてならないのでは、とも思っている。

#もぐら会 #こんな社会だったらいいな

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